四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

警察からは感謝状

 こりゃ今日は死ねねえな。
 こういうのはタイミングなのだ。また別の機会を待とう。
 残念な気持ちはあるけど、それよりも面倒くささが上にくる。懸命になんか喋ってるこのおじさんに、それなりにあたしが死のうとしてた納得のいく理由をでっちあげて、それなりの涙と叫びで愁嘆場を演出して、終生の自慢話にできる自殺阻止の成功体験を与えてあげないといけない。ああ、面倒くせえ。
 泣くのは簡単だが(それなりに哀しみはいつも抱えてるし)、後でこのおじさんのおかげで一旦落ち着いたように見せるため感情の昂らせにはコントロールが必要だし、死ぬ理由も適度に共感できるけど実際は理解できないような物語がいるだろうし…いやあ、それにしても興奮してんなーこのおじさん。状況と自分に酔っちゃってんのかな、あ、それは意地悪すぎるか、優しいんだよね、たぶん。
 思い切ってセックスを申し込んで、その反応を見たいな、という気持ちが持ち上がってくる。この立体駐車場はほとんど平日は人が来ないし(だから選んだのに、なんでおじさん来ちゃうかな)、裏階段は誰も使わないから場所は問題ない。おじさんの顔はまったく好みではないし、何ならさっきから臭いも気になってるんだけど、悪くない気がする。なんか人生がどうだとか言ってるおじさんが、どんなふうに必死に腰を振るのか、見てみたいかも。
 でもなー、結局男は挿れちゃうと一緒なんだよなー。「俺は必要とされてる!」って嬉しさと満足感でいっぱいになって、可愛いっちゃ可愛いんだけど、テクがあろうが、保ちがよかろうが、モノのしなやかさがしっくりこようが、全員おんなじ顔に見えてくるんだよね。
 話すタネが尽きてきたのか、おじさんの話が2周目に入ったような気がしたので、あたしはとりあえず泣いておじさんに抱きついた。くせえ…。「うまく言えないけど」という言葉を連発して、なんとなく理由めいたものを話して、感謝して、大丈夫…だと思う、なんて少し相手に心配の余地を残すことも忘れないで。
 セックスはしないことにした。抱きついた時に受け止めた腕の感触がほんのりキモかったからだ。あたしは自分がしたくない時にはセックスできない。絶対にしたくない時はそんなにないけど、キモく感じたら絶対にできない。どんなにお膳立てされてても、たとえそのお膳立てが自分がしたものでも。
 逆に、お膳立てがあれば、いつでも死ねる。今日は空の青さが良かったし、風もちょうどよかった。いつものプレイリストの音楽が、いつもよりはっきりとした輪郭でイヤホンから聞こえた。うってつけの日だと思った。理由なんてない。あっても説明できない。説明できても説明したくない。
 エレベーターで1階まで下りながら、おじさんはあたしの家まで送ると言った。親と話すとか言ってる。そういや親と不仲みたいなことをでっちあげてしまった。貧困っぽいこともほのめかしたかも。でもうちは家族仲良しだし、家もけっこう裕福だ。おじさんのスーツの生地こそ安っぽくて可哀そうなのに、あたしは嘘の境遇を哀れられている。
 怒りが湧いた。いつまで馴れ馴れしく臭い手で肩抱いてんだよ。あんたはあたしの最高のエンディングを阻んだ邪魔者なんだよ、自覚ある? 思わず肩の手を払ったら、おじさんは意外そうな顔をして、ほんの少しだけだけど怒りの表情を見せた。すぐに隠したけど、あたしは人の怒りに人一倍敏感なので、分かるんだ。下に見てた哀れな子犬に急に嚙みつかれて腹立った? そんなつもりじゃないのに、って思った? そんなつもりかどうかはあんたが決めるんじゃない。あたしが感じることだ。
 ま、善意の人ではあるんだろうから許したげるけど、二度と顔を見せないでほしい。そんで自分のしたことを手柄のように周りに話し聞かせるがいい。鼻高々で。実際は全然違うのに。その愚かさに気づきもしないで。そうやって醜く死んでいくのがお似合いだと思う。
 私はいつか美しく死ぬ。

動植事典 補遺 1

ヤミ【やみ】

 古来、真っ黒で大きな鼬の姿で描かれることが多いヤミだが、もちろんその正確な姿は誰にもわからない。光を食う(掃除機が塵を吸い込むように食うというが、これも通説にすぎない)ヤミの輪郭を光学的に捉えることは不可能だ。

 ヤミの姿で唯一はっきり視認できるのは肛門(あるいはそれに似た排泄器官)である。ヤミは14日と6時間ごとに一度、排泄をする。これは一見その輝きから無数のカットが施されたダイヤモンドのように見えるが、表面は滑らかで完全な球体をしている。直径3〜5㎝ほどのそれを排出した瞬間の光は一瞬ヤミの一部を照らし出すが、彼らはすぐにその場から逃げ去ってしまう。

 排泄直後は無限の光が中に閉じ込められて内部で反射を繰り返しているように見える球状の“糞”は、しかし次第に輝きを失い、14日と6時間後には完全な透明な物体になり、それとともに周囲と隔絶していたガラス質の輪郭も消失、物体として消滅する。その儚さもあってか、人は長い歴史の中でこの“糞”に魅了され続けてきた。この排泄物が巻き起こした凄惨な悲劇は枚挙に暇がないが、本項はそれを語るべき場ではない。

 信頼性が高いとは言えない古い文献や言い伝えには、ヤミを捕らえて家屋の屋根裏に飼うとその家は栄える、などの言説を複数確認できるが、ヤミを捕獲した者はもちろん、触れた者もいないというのが先のアントワープでの非視認生物学会での結論だ。

 大きさも本当はまちまちで、光を吸収する物体、つまり黒い物の表面には無数の小型のヤミが存在するのではないか、などと筆者は考えたりする。彼らの排泄物はあまりにも小さすぎて視認できないが、人を知らず知らずのうちに魅了し、何も見えない暗い深淵に誘ったりしているのではないだろうか。

故に人身に宿りて

 見なければよかったと思った時には既に目に入っていたわけで時既に遅く、三郎太は立派に伸びた角を握って、頸をすっぱりと切られた牡鹿の頭部を持ち上げた。重い上に臭う、が仕方ない。札は貼っていなかったが、この時期路上にある鹿の頭はまず間違いなく美津雄社行きの献物と決まっている。そして三郎太は今から三日ほどかけて美津雄の御神域のほど近くにある村落に向かうつもりだったので、黒々とした目に未だ光を宿すように見えるこの頭を社にまでお運びするのは彼の役目となる。見つけてしまったんだから役目は負う。古くからの決めごとに疑問はないが、何も今回でなくてもよかったろうにというのが三郎太の本音だ。左手で角を持って肩越しに鹿首を背負い、右手に大切に抱えるのはスミのために仕立てた着物を包んだ風呂敷で、つまり彼の旅の目的は求婚であって、うまく事が運べば往きに背負うこの臭い鹿の頭は、帰りには清楚な花嫁に取って代わられるはずなのだ。
 三郎太は鹿肉を食わないが、食らう人達がいるのは知っている。祖父は薬だと言ってたまにどこから手に入れたのか猪肉を食っていたが、鹿も食っていたのかもしれない。うちには四つ足の獣を食うための宥免札はなかったから、そうだとしたら隠れて食っていたのだろう。免状もなく肉を食うと仏罰をくらうということだが、祖父は特に何の罰も与えられることもなく、死の間際まで家族に当たり散らし続けて往生した。特に義理の娘である三郎太の母は肉体的にも精神的にも殴られっぱなしで、それでも葬儀で涙したのを見た時に三郎太は母も狂っていたのだと断じた。祖父はやはり来世では酷い目に遭うのだろうか、だとしても今世に遺った誰の心も晴れはしないが。
 などと思い歩いていると前から歩いてきた小柄な老人にいきなり怒鳴られる。抑揚も語彙も三郎太の知る言葉と少し違い、よくは聞き取れないが、「何をしているんだ」とどうやら三郎太に対して激怒している。元来気の強くない三郎太はいきなり怒鳴られたところで既に心を縮こまらせていて、でかい図体も小さくしながらよくよく老人の言い分を聞いてみると、鹿の頭の持ち方についてそれでは駄目だという苦言らしい。「ミツオ様へのササゲモノをそんな乱暴に背負うやつがあるか」と、身体の前で両手で持てと指示する。
突然服を脱ぎ出して老人を驚かせた三郎太は、屈んで大切な着物の包みを背中に乗せてから上を羽織り、しっかり帯を結んで服の中に荷物を固定、間違っても鹿の血や体液で着物が汚れないようにして、恭しく頭を腹の前で捧げ持つ。
 老人は満足気な笑みを浮かべたが、それが大切な神への供物の扱いが正されたからなのか、自分の言い分を若者が聞き入れて思い通りになったからなのかは分からない。鹿頭を運ぶのが初めての三郎太は老人にそう伝えて、現地でどの場所で誰を訪ねるのかなど具体的な方法を訊いてみたが、老人は開き切らない口で「神の思し召し」的な言葉をもごもごと繰り返すだけで埒が開かない。おそらくこの老人も何も知らないのだろう、となるとこの鹿頭の持ち方も正しいのかどうか知れたもんじゃないな、と思いながら三郎太は旅を再開した。
 人間の鼻が顔の前方についているからには、背中にあるより腹の前にあるほうが臭うのは当然で、臭気に痛めつけられ続けた鼻が麻痺して雨の予兆もかぎ分けられなくなった頃、三郎太はやっと宿場にたどり着いた。直後に雨は本降りになり、びしょ濡れになるのをすんでの所で回避できたはずの三郎太が再び戸外に出る羽目になったのは、宿屋の番頭が鼻をつまんで美津雄様への献物を外に出してこいと、言葉は柔らかいが断固とした態度で命じたからだった。親切にも「美津雄神」と書かれた幟を貸してくれて、それと一緒に街道脇の木の下にでも置いてこいと言う。この雨で屍肉がどうなるかは不安だったが、一方で誰か別の人間がこれを運んでいってくれるかもしれないという期待も感じながら、三郎太は年代物の幟がなるべく目立つように工夫して鹿頭を街道脇に設置した。すっかり濡れ鼠となって風呂を所望した三郎太は、番頭に笑顔で一番後にしてくれと言われた。

 峠を越えなくてはいけない日なので早くに起きた三郎太は、甘い希望をすっかり捨てていた。昨夜、宿で夕食を共にした行商人は、今どき馬鹿正直に“街道送り”なんてやってるやつは行商仲間にもほとんどいない、捧げ物は神官たちが自ら集めるもので十分足りる、だいたい捧げ物は数がきっちり決まっているから外から追加されても向こうも困るのではないか、と三郎太の行いにはまるで意味がないと言う。悪いことは言わない、死んだ獣の頭なんぞ打ち捨てていけばいい、という行商人の忠告を無視して、三郎太は昨日と寸分違わず同じ位置に置かれていた鹿頭を両手に持って、雨は止んだがまだ霧の深い朝の街道を歩き始めた。“街道送り”で宿場間を行き来している山道用の杖を持っていくことを「次の宿に置いてくれればいいので」と番頭は勧めたが、こいつを抱えるからにはそもそも杖など持つことができない。番頭も言外に鹿頭を置いていけと伝えていたんだろう。三郎太は皆の温かい思い遣りに感謝しながら、半刻ほどで既に息を切らしながら尚も鹿頭を抱え続けた。
 意固地になっているのか、それとも昨夜の行商人の言葉を信じ切れないのか、単純に神罰や祟りが恐ろしいのか、と三郎太は自らを省みるに、どれも当てはまるがどれも少し足りないと感じる。峠が近づくにつれて勾配が急になるのは知っていたが、その覚悟を事前にしていたからといって何か楽になるわけでもない。この街道を往来する先人が為したことだろう、九十九折の曲がり目にある木には、昔から番号を振った札が下げられていて、百八を数えれば峠に着くというのを三郎太は知っている。今までも何度か通った峠道なのだ。仏縁のある数字に合わせるためか、明らかに道は曲がったのに数が増えないこともあり、それが子供の頃から不満だったのを思い出す。初めて峠を越えた八つの歳の三郎太は、曲がりの数を百十四と数えた。大人たちは誰も曲がりの数の矛盾を気にしているように見えず、その数は自分だけが知るこの世の秘奥として永く三郎太の心に鎮座していた。
 額から落ちる汗を拭く手がなくて目が沁みる。昨日の雨も吸ったのか重くなったように感じる鹿頭はやけに毛艶だけは良くて気を張っていないと滑り落としてしまいそうになる。慣れたと思う鼻も、日が高くなり温かくなってくるにつれていや増す臭気を再び感じ取り始める。足元は濡れそぼって歩きにくいことこの上ない。しかし三郎太は鹿頭を棄てられなかった。拾った当初のように背負うこともしなかった。これを手放すということは、スミの心が自分から去っていることを認めることだと、理由も分からず三郎太は思い込んでしまっていた。やはり百十四回曲がって峠にたどり着いた三郎太は、峠から街道を少し離れて見晴らしのある場所へ向かい、平たい石に腰掛けて暫しの休憩をとった。
 達成感とともに、ほとんど見失いかけていた今回の旅の目的への希望を少しだけ見出せたような心持ちがした。峠からは大きな湖を中心に据えた美津雄の御神域が見渡せる。その風景の美しさは、八つの時を最初に三郎太がスミの隣で何度か一緒に見てきたものと変わらなかったが、荷が重いと山道はむしろ下りの方が辛いということは今回初めて知ったことだった。

 峠の麓の宿からはもう湖は見えない。ほぼ同じ高さまで下ってきているので、よほど視界の開けたところに出ないと湖面を眺めることはできないのだ。それでもここまで来ると彼方此方に美津雄社特有の三角鳥居が見て取れて、既に三郎太は御神域に入っていた。ここでは全ての神の御住まいが、その敷地の四隅を三本の柱が三本の島木を支える奇妙な鳥居に囲まれて建つ。神社だけでなく、ごく小さな祠にもその四隅にそれに見合った小ささの三角鳥居が配置されていて、その執拗さに子供時分から三郎太は恐怖を感じていた。もし神が皆が言い伝えるようなものとして在るなら、これほどまでの徹底を人に要求する神は怖かったし、仮に神が実は人にはまるで興味がないのだとしたら、届かない思いを伝えようとする人間の愚かな執着をやはり恐ろしく感じた。どちらかというと今の三郎太は、神は世界が美しくあることにのみ関心があって、人やその営みなど眼中にないだろうという考えに寄っていた。
 麓の宿には鹿頭は持ち込まなかった。お陰で三郎太は親切な客から愚かな行為を辞めるよう説得されずに済んだし、風呂を貰う順番も特に差別されなかった。道端の茂みに隠しておいた鹿頭は夜のうちに少しその向きを変えていて、朝から死んだ鹿としっかり目が合ってしまった三郎太を嫌な気分にさせた。鼠が齧りでもしたのか、耳が少し欠けてしまっていたが、一夜明けてもそれはそこに在り、つまり三郎太は糸取りの上手な婚約者に会う前に、これを然るべき場所へ届けないといけない。昨夜宿でスミから届いた最後の手紙を読み返した三郎太は、残念ながらその文面にも行間にも、新たな希望を見出すことはできなかった。12で結婚の約束をし、その半年後にスミは繭から糸を取る仕事の腕を買われて美津雄に奉公に出た。それから五年経つ。スミは三郎太の村に一度も戻らなかった。最後の手紙の日付は一昨年の春だ。此方は上手くやっているからもう心配するな、という内容の文面はやはりそういうことなのだろう、その後三度ほど三郎太が出した手紙に返信はなかった。
 でも俺は行くのだ、と自分を奮い立たせて三郎太は四ノ宮に向かった。美津雄社は一ノ宮から四ノ宮まで四つのお社があり、それぞれ湖の四方に位置している。四ノ宮から順にお参りするのが作法ということになっているが、湖をほぼ一周することになるため、よほど脚が強くても丸一日かけて巡り切れるかどうかだ。献物の奉納先も知らない三郎太がとりあえず向かった四ノ宮は奇妙にひと気がなく、精緻な彫刻で飾られた横長い神殿が、時折吹きつける強風で立てる軋みがやけに大きく鳴り響いていた。三郎太の粘り強い呼びかけに応じて面倒臭げに社殿から出てきた宮司が言うには、鹿の頭を集めているのは二ノ宮だ、その奥の院で行う祭祀に使うからだが必要な数が揃えば献物はもう受け取らないだろう、献物の数が今どのような状況かは分からない、とのことだったが、明らかにその表情は、お前の行為は無駄に終わるだろう、と告げていた。二ノ宮といえばここから湖の真反対側ですからな、冬であれば凍った湖面の上を歩けたかもしれませんが、と宮司は笑ったが、三郎太はそれが冗談であることにも気づかず、右回りで向かうか左回りで向かうかだけを考えていた。

 まさかこれほどまでに歓待されるとは思わなかった。片耳は齧られ腐敗臭も酷い鹿頭を大層有難がって受け取ってくれただけでなく、汚い身なりの三郎太を躊躇なく社殿に上げ、寛ぐためのひと間をあてがって茶や菓子でもてなし、是非日が落ちてからの祭にも参加してくれと言う。スミのことが頭をよぎるが、元々スミの奉公先は四ノ宮から半刻ほどの村に在り、最早今日中に訪問することは叶わない。それは四ノ宮を出てここに向かった時から三郎太が覚悟していたことではあった。後回しにしたのは結末を知るのが怖かったからか、鹿頭を奉納すれば何かが変わるなどと考えていたからか。いずれにせよ、今日はここに泊まらせてくれるようなので三郎太はこの数年ずっと先送りしてきた問題をもう一日後の自分に託すことにした。
 二ノ宮の宮司たちに指示された通り、まず境内の裏山に湧いていた野天湯で身体を清め、用意された上等な紬の袖を通してその上に鮮やかな黄色の法被を羽織る。そして同じ法被を着た人の列に行く先も分からず着いていくと、屋根のある長く幅の広い板張りの廊下に、次々と鹿の頭やその他の四つ足の獣の頭、そしてその下に付いていた身体から採ったのであろう塊の肉、魚や海獣、雉や鴨や見たこともない鳥、三方に載せられたそれらが次々と並べられてゆく様を見る。三郎太の一家全員が一生かかっても食べきれないほどの肉が所狭しと積み上げられてゆく。三郎太たちは幅は三間、長さは十間以上あろうかというその廊下の先に連なる正方形の社殿に座り、祭祀が始まるのを待つ。
 鹿の頭は廊下の両端に並べられ、その視線が廊下の中央に集中するように丁寧に配置されている。その他の肉や魚は特に決まりはないのか、てんでに並べられているように見える。日が落ちて暫く経ち、かなり見通しが悪くなった頃、中央の空いていた場所に巨大な半球状のものが運ばれてくる。まだ湯気を上げている蒸し米は少なくとも三升ほどはありそうだなと目を凝らしていると、突然境内じゅうの篝火に一斉に火が灯され、三郎太は思わず声を上げてしまう。そこへ神官が恭しく輝くような白木の三方に載せて捧げ持ってきたのは、耳を見れば見間違いようもなく三郎太が持ってきた鹿頭だった。
 厳かに始まった祭祀の内容を三郎太は最早覚えていない。いつの間にか捧げられた獣肉や魚や鳥を無闇矢鱈に酒で流し込むような宴に加わっていた三郎太は、祭祀がどう終わったのか、同じ法被を着た人達と何か言葉を交わしたかすらも定かではない。食欲というより破壊衝動に憑かれたかのように喰らいまくり、やがて嘔吐してまた喰らい、呑み、祭祀の終わるのを待って境内に入ってきた人たちと歌い踊り殴り合い、混沌を極める状況の中で三郎太が最後に見たのは、知らない男の上に乗って着物をはだけて嬌声を上げるスミだった。それを見ながら、三郎太もまた、知らない女の上で果てた。

世界を変えるための或る一つの特異点をめぐる探索行(1)

一章 大いなる知と眠れる過去とがファヌスを長きにわたる探索行へ導く



 農家の四男なのでファヌスの未来に希望はない。もう少し若い頃から家を出てどこかの職人に弟子入りでもしていれば、それなりの道が開けていたかもしれないが、ファヌスは年の離れた長兄に言われるがままに教会に通い、さわり程度の神学や天文学などを学ぶことで、彼の10代の大半を過ごしてしまった。
 今思えば、兄貴は最初っから俺を坊主にしようとしていたんだな、とファヌスは振り返る。しかし、自分が信じてもいない神を他人に振りかざして一生を過ごすなど、まっぴらごめんだった。
 聖職者という特権を持たない四男には何の価値もなく、18の春にファヌスは追われるように家を出た。とりあえずグラデツの街に出て、博打うちにでもなれればよいほうだろう、そう考えるファヌスの右手には家宝の宝剣が握られている。どさくさに紛れてくすねてきたそれは、ファヌスの先祖が何某という辺境伯だかを行き倒れの危機から救った時に授けられたという代物だ。
 そんな話をファヌスは信じてはいない。おおかたどこかの墓でも暴いてせしめたものだろう。本当に価値があるのかも分からない。これが売れたら売れたでいいし、売れなかったら剣を本来の機能で使って野盗になるのもいい。
 ファヌスの父親は単純かつ愚かな人間で、先祖の言い伝えを少しも疑わず、いつか自分たちが「辺境伯」の子孫とやらに「騎士」として取り立てられる可能性があると考えていた。農閑期には棒切れで息子たちに剣術の稽古を厳しく仕込み、どこから仕入れたのか「騎士の心得」とやらを暗唱させるのだった。
 ファヌスの認識では、彼が知り得る範囲の世界に騎士などもういなかった。戦うべき敵国もなく、拓くべき辺境もなく、ただ馬に乗って剣を振るうだけの人間を養える王や貴族などはいなくなって久しい。あるとすれば修道士が武装して騎士団を名乗っているくらいだ。結局のところは神の後ろ盾があってなんぼ、それがなければ金、というのが今の世の中だとファヌスは理解していた。

 天文学や音楽、数学を学ぶのは単純に楽しかった。ただ聖典や神について学ぶことは、もとより内在している矛盾を糊塗するためだけの無意味な知的遊戯としか感じられなかった。全能の神がいるなら何故罪なき俺の幼馴染みは犯され殺されたのか、何故贖宥の資格をちらつかせて私腹を肥やす聖職者が蔓延るのか。
 家を出る前の晩、さまざまな知識を授けてくれた司祭を訪ねたファヌスは、今までの恩への礼と、聖職者にならなかったことへの詫びを告げた。齢60にならんとする司祭は微妙な表情で、出家する以外にもここで働く方法はあると言ってくれたが、丁重に断った。ファヌスにとって聖堂はもはや忌まわしい場所にすら感じられていた。
 わずかばかりの知識を得たファヌスが理解したのは、結局人は皆大差なく愚かで、ほとんど何もわかっていないということだった。もちろん自分も含めて。
 より知りたいという欲はもちろん芽生えていたが、その方法はなかった。また、全てを知るにはこの世界が広すぎることも把握していたし、愚かな兄達が毎晩酒場で吐く妄言のように「坊主を全員殺して」も、世界が変わらないことも知っていた。
 生まれ育った村を出て西へ。いつしか陽は沈み、ファヌスは野営の準備を始める。グラデツまではまだ半日以上かかる。このあたりは獣人や狼も少ない。簡易な寝床の準備だけで横になった。
 秋の星座が満天に輝いている。その星の動きに一定の法則があることをファヌスは知っている。
 世界の美しさを知れば知るほど、世界の醜さに耐えられなくなる。15の夜に泣きながら夜空を眺めていたのを不意に思い出した。今となっては、何故あの時泣いていたのかも思い出せないのだが。

 グラデツの街に来るのは二度目だった。十になるかならないかの頃、司祭に連れられて丘の上にある大学を訪ねた。1週間ほどの滞在だったが、確か大学内に寝泊まりして、街には下りなかった。行きと帰りに通過しただけだ。
 大学や聖堂のある丘と大きな川との間に挟まれた狭い区画が、川沿いに細長く延び広がって発展した街だ。川の上流、南側の門から街に入ると、川沿いに延びる平坦な道と、丘の方へ向かって緩やかに登る道の分岐に立つことになる。
 あてがあるわけではないファヌスは賑やかな方を選んで川沿いを進み、街の中心に近いところに宿屋を見つけてそこに落ち着いた。足の短い赤顔の亜人が務める受付には「とりあえず1週間」と言ってその分を前金として渡したが、ファヌスの手持ちはそれが全てだった。
 道具屋を5軒ばかり回ってみたが、宝剣は思うような値がつかなかった。薄汚い身なりに足元を見られたのか、本当に価値がないのかはわからない。売るのはやめにして宿に戻ったファヌスは鞘や柄に付いている宝石を取り外した。付いたままでは悪目立ちして腰に下げにくいし、何しろ金を得ないといけない。
 夜、宿の一階にある酒場に降りて、ファヌスは金貨の代わりにその宝石を賭け、木札遊びで少しばかりカモから金を得た。それなりの記憶力さえあれば、少し頭を使うだけで簡単に勝てる。勝ちすぎると目立つので程々に抑えることに苦労したくらいだ。
 次の夜は別の酒場でカモを探すことにした。博打は何より勝ちすぎてはいけない。相手が別でも同じ場所で二晩勝つなどもってのほかだ。
亜人お断り」の札が入口に掲げられたその店は、宿の酒場よりも明かりが暗かった。澱んだ目をした客たちは皆、初見のファヌスを一瞬鋭く一瞥した後、何もなかったように視線を戻す。
 昨晩より慎重に、うまく負けながら最後に少しだけ勝つようにした。バカのふりも忘れなかった。田舎者のふりは、敢えてせずとも見た目から滲み出ていただろう。ファヌスは客たちにそこそこ気に入られた。
 ある客の「また来いよ」という言葉には、もちろん負けた金を取り戻したい気持ちが大半を占めていただろうが、それだけでもなさそうだった。ファヌスの方は二度とこの店を訪れるつもりはなかったが。

 愛想を振り撒きながら店を出て、宿に戻ろうと歩き始めたところで後ろから声をかけられた。
「うまく生きようとするものは最も少ないものを得る」
 振り返ると、聖職者が着るガウンを墨に一年漬けこんだたような、妥協なく黒い一つなぎの服をまとった老人が立っている。服から露出した僅かな部分、顔と骨ばった両手の先だけが月明かりに照らされて奇妙に浮かび上がっていた。
「多くを得たいか」
「いや」
 ファヌスは素直に答える。その欲はファヌスにはない。老人は少し笑ったように見えた。
「では」
 老人がフードを取る。豊かな銀色の髪が露出する。眼光が一層鋭くなったように感じる。この人は実はまだ若いのではないかーー
「世界を変えてみたいか」
 こうしてファヌスの旅は始まった。




 火打ち石に松明、油壺、干しいちじくと干し鰊、ロープやつるはしなどを買い集め、探索行に必要な荷物をまとめるとかなりの量になった。丁寧に荷造りしても、大型の背負袋がはち切れんばかりに膨らんでいる。
 長く見積もって一週間の行程、二人分の荷物を詰めるわけで、この重さも当然だと、ファヌスは試しに背負った荷を下ろしながら溜息をついた。
 だが、荷物持ちは今回の自分の役割のほんの一部に過ぎない。実家から持ち出した剣を弄びながら、狩った猪を捌くのと襲い掛かってくる獣人の皮膚に刃を突き立てるのは、だいぶ訳が違うだろうなどと考えていた。

 ミルティンと名乗った黒衣の男は、昼間に見るとやはり老いていた。歳を尋ねると、お前の10倍近くは生きているよ、と言う。さすがにそれは嘘だろうが、骨にへばりついているような手の甲の皮膚や、井戸の底から届くようなひび割れた声は、その肉体が相当の年月を経ていることを感じさせた。
 彼の話はこうだ。東の山脈の麓に奥深く延びる横穴があり、今は犬の頭をした獣人の寝ぐらになっている。そこはもともと盗掘を専門にしていた盗賊集団のアジトで、何らかの理由で元いた場所を追われたのであろう獣人の群れに突如襲撃され、盗賊たちは全滅した。盗賊の隠していた財宝はまだその洞窟に残っているが、その価値が分からない獣人たちはそのまま放置している。
「そこにある、或る地図が欲しい」
 話の通じる相手ではないとなると、解決策は剣に頼るしかなくなるわけで、ファヌスはつまり傭兵としてミルティンに採用されたわけだった。もう少し多くの人数を雇うべきだというファヌスの当然の提案はにべもなく却下された。
「大いなる秘密に関わる人間を無駄に増やすわけにはいかない」と宣うミルティンの表情から、ファヌスは真意を読み取ることができなかった。

 それでもこの仕事を受けたのには3つほど理由があった。
 まずはしばらく食いつなげるという目先の安心(ミルティンの提示した雇い金と成功報酬は相当なものだった)。そして、いずれにせよ行き詰まっているファヌスの人生が、その洞窟で獣人の餌になるという結末を迎えたとしても、そんなに悪くないじゃないかという、捨て鉢な思い。何より大きな理由は、この仕事は実は自分一人でも事足りるのだと言い放つミルティンが見せた、その傲岸さを裏付ける特異な能力だった。
 彼に会った晩、酒場の前で話していた時のことだ。店から出てきた酔客に因縁をつけられたファヌスは、執拗な絡みの末に刃物を抜かんとすらしていた男が、憑物が落ちたように豹変するのを見た。そしてその直前に、ミルティンが小声で聞き慣れない言葉を唱えているのも見ていた。不自然な愛想の良さを突如身につけた酔客は、不細工な笑みを振りまきミルティンに持ち金を渡して、促されるままに酒場に戻っていった。ミルティンは金袋をファヌスに投げてよこす。「彼の気持ちだ。迷惑料としてもらっておけばいい」
 旅のお供を引き受けるにあたって、彼のこの力があれば安心だと考えた、というわけではない。ファヌスはむしろ、その力自体に強く興味を惹かれたのだった。

「異端学者」
 荷物の準備を終えたファヌスはそれを報告した後、分厚い書物に、薄汚い紙片から何かを書き写している雇い主にそう言った。少し語尾を上げ、聞きようによっては質問ともとれるような抑揚で。
 微かに鼻を鳴らしてファヌスに向き直り、ミルティンはある図像が描かれた紙を見せてきた。
「金星の軌道」
 ファヌスの答えに否定も肯定もせず、黒衣の老人は無言のまま次々に紙を見せてくる。それが指し示すと思われるものをファヌスは一つ一つ答える。中には全く見当もつかない、見たことのない図像もあった。
 やがて試験は終わり、無感情に「それなりの教養はあるのか」と呟いたミルティンは「お前の言う異端とは何だ」とファヌスに問う。
「…“正統な神の教え”から外れたものだろう」
「口にした自分の言葉に虫唾が走るとでも言いたげな表情だが」
 少し身体を震わせ、咳とも笑い声ともつかない音を出しながら、彼は問い掛けを続ける。
「その正統とやらは限られたものであり、異端はそれ以外の全てを指すと。では、単純な確率論から言って、世界の真理が隠されている可能性が高いのはどっちだ」
「世界の真理は隠されているのか」
 何を今さら、というような目つきで銀髪の老人はファヌスを見遣る。ファヌスは薄っぺらい自らのすべてを見透かされているような感覚を得る。
「そうでないなら、お前はなぜ世界を変えたいと願うのだ。全き真理が実現している正当な世界を変える必要はなかろう」

 ファヌスは自らが生涯呪い続けてきた対象について、美しい法則によって成立しているはずが何故か美しさの欠片もない設計物に見えるこの世界について考えていた。沈黙するファヌスをよそに、ミルティンは紙片の書写作業に戻り、しばらくして思いついたように付け加えた。
「学者というよりは」
 自らの思考に集中していて虚をつかれたファヌスは一瞬狼狽えてしまう。
「術師というほうが今は近い。実際ここ数十年は何も学べていないのでな。まぁ、学者に戻るために術師をやっている、というところか」
 自嘲と焦りが滲んでいたかもしれない老人の言葉は、しかしファヌスの耳を素通りし、彼はこう口にした。
「俺もその術を身につけることは可能か」
 自分でも自分の言葉が意外だったが、ミルティンが事もなげに「そうしたいなら、そうすればいい」と事実上の弟子入りを受け入れたことにファヌスはより驚いた。そしてこの日以来、老いた師の気が向いた時に、ファヌスは「異端の」学問を体系立てて教授されることになる。
 時が経ってミルティンの偉大さを嫌というほど思い知らされるにつけ、ファヌスはこの日老人が何故こうもあっさりと受諾したのか、分からなくなるのだった。





 致命傷を負わせてもまるで目覚めないほど深い眠りに落ちている獣人の首を、逐一胴体から切り離していく作業は、精神的にも肉体的にも重労働だった。
 ミルティンの指示通りに二頭いた見張りの片方だけを片付け、もう片方が逃げながら放つ耳障りな甲高い叫び声によって呼び集められた仲間たちがファヌスの前に殺到する頃には、術師の詠唱は完了していた。一瞬の不自然な静寂が訪れた後、獣人たちが一斉に地面に崩れ落ちる音が洞窟内に響きわたる。
 最初のうちは当人や周囲の獣人たちが目覚めないように慎重かつ一息に首を切り落として殺害していたが、どんなに素早く首を斬り落としても獣人は悪臭を伴う不愉快な断末魔(胃から声が出ているのかと訝りたくなる)をあげること、そしてそれぐらいの音量では周囲の獣人どもの眠りは妨げられないことを理解し、ファヌスはできる限り体力を節約するやり方で、このルーチンワークをこなしていった。
 予想外なことに逃走や反撃を企図して寝たふりをしていた奴は一頭もおらず、ファヌスは疲労はしたが危険に晒されることなくこの洞窟の住民全員の殺戮を完了した。ミルティンの詠唱の言葉はまだほとんど解釈できなかったが、この術が獣人の何に働きかけ、どんな効果を誘発したのか、そしてその機序の原理については、おぼろげに理解できた。
 それは喩えるならば、地面に穴を掘ってその穴の口径よりも小さな石を落としたら、掘り下げた先まで石が届く、というような、直観的には自明に感じられる原理だった。しかしそれを本当に理解するためには、石が地面を通過しないこと、空間上に石は停止できないこと、指は接触していない限り石に力を及ぼすことができないこと、などの現象を理論で説明できねばならない。ファヌスはまだ、その学びの入り口に立ったばかりだった。

 全く手伝おうという素振りすら見せず、洞窟の壁にもたれて目を閉じ、うたた寝でもしているように見えたミルティンはしかし、ファヌスが最後の獣人の首を斬り落とした瞬間に無言で奥へと進み始めた。ファヌスは慌てて松明の明かりを掲げてながら彼に続く。
 悪臭に耐えながら獣人たちの生活圏を抜けて進むミルティンの足取りは確信に満ちている。一度来た場所なのかと尋ねると、呆れたように「獣人たちのねぐらの構成が明らかにある方向を忌避し何かを隠蔽しようとしているのに気づかないのか」と答える。
 地熱とそれに蒸された湿気とともにまとわりつく腐肉と硫黄の臭いで頭がいっぱいだと正直に吐露すると、笑いながらも老術師は「観察は重要だ」と短く嗜めた。そしてファヌスの肩に触れて短く何かを唱えた。
「息を止めてみろ」と言われるがままに、ファヌスは意図的に身体への空気吸入を中断し、術の力によって鼻や口からでなくとも呼吸が継続できていることを知る。ミルティンはこの洞窟に入る以前から既にこうして呼吸していたと言う。もっと早くこの術を俺にもかけてほしかったという恨みを遥かに上回る、畏敬の念が湧く。この術師への畏敬と、術自体、その根本にある知自体への畏敬。

 久々の新鮮な空気に知覚の敏感さを取り戻したのか、ファヌスは30メートルほど先の岩陰に隠れている存在に気づく。先ほどの師の教えに早速従い、向こうに気取られぬよう観察すると、哀れなほどに怯えている。そして奇妙なことに、こちらに気づいていない。
 小声でミルティンに状況と違和感を伝える。老人は少し眉をひそめ、
「確かに地熱にしては熱すぎた」と呟く。そして岩陰のほうに真っ直ぐ近づきながらファヌスを前に行くよう促し、獣人の足枷を外してやれと言う。
 足枷どころか下半身も隠れて見えなかったファヌスは、彼にやっと気づいて声をあげる獣人の足元が本当に拘束されているのを見て驚く。足枷を壊すと獣人は喚きながら走り出した。じきに仲間の屍体が積まれた様を見て更なる喚き声をあげることになるのだろうと憐れみながら、ファヌスは術師がなんらかの術の準備を始めているのを見た。
 そういえばさっきは何の術も使わずに足枷を見抜いていたが、どういうカラクリだったのか。術をかけ終えた様子の師に尋ねると、彼は直接問いには答えず、韜晦の全くない、硬質で直線的な口調でこう言った。
「想定以上の危険にお前を晒すことになった。追加料金は私が生きてここを出られたら必ず支払おう」

 ファヌスは言葉の意味が分からず、続きを待った。だがミルティンは荷物をここに一旦おくことなど、これから始まると思われる作戦行動の準備の指示をするだけだった。
 身軽になった二人は獣人が隠れていた場所から奥へと進む。人一人がやっと通れる割れ目のような道は、急な下り坂になり、一歩進むごとに気温が上がるように感じられる。
「さっきの生き残りは」
 ミルティンは静かな口調で話し始める。
「おそらく生贄だ。獣人は宝物の価値がわからなかったのではない。その在処に近づけなかったのだ。それどころか“税金”すらも要求されていたのだろう。」
 その言葉の内容よりも、師の口調や表情よりも、皮膚がひりつくような熱気が、最も雄弁に経験したことのない危険が近づいていることをファヌスに感じさせる。
「お前には申し訳ないが、私はどうしてもあの地図を手に入れないといけない」
 覚悟はもちろんできている。そして何より、この先にあるもの、ミルティンすらも戦慄させる何かを見たい気持ちが熱を割いてファヌスの身体を前へと押し出していた。
「たとえ、“大いなる過去”と直接対峙することになろうとも」
 ミルティンのその言葉は突如として高らかに響きわたった。彼が声を大きくしたのではない。二人が大きな地下空間にたどり着いたのだ。
 その高い天井に反響した声をかき消して、その空間の主が咆哮する。
 赤く巨大なーー
 そこでファヌスの視界は炎で満たされた。客人はまず口から吐き出す熱炎でもてなすという旧くからの伝統を、偉大なる古代の怪物は律儀に踏襲したのだった。





 不思議と呼吸ができる、のはさっきミルティンの術のおかげか、と気づいてファヌスは無意識に閉じていた目を開く。怪物の姿は見えない、どころか視界はほとんど花崗岩の壁で塞がれていた。幅高さともに7メートルほどの壁が忽然と前方に現れ、ファヌスたちを熱炎から守ったようだ。
 振り返ると、彼のすぐ背後に立っていた石壁の創造主は聞き慣れない言葉を口にし始めた。今度は詠唱ではない。その骨張った体躯のどこにそんな力があったのかと驚くほど声を張り上げ、その声はどうやら怪物に向けられていた。
 いくつかの語彙は学び始めている古代語と共通しているようにファヌスには聞こえたが、そのことで示唆される断片的な情報よりも、限りなく懇願に近く響くミルティンの語調によって、彼が巨大な怪物に何らかの取引を提案していることが推察された。つまりは条件付きの命乞いだろう。
 語気と短さだけで拒絶と確信できる返答とともに、ファヌスの鼻先1メートルほどの位置に怪物の前足が振り落とされ、術師が創り出した石の防壁を一瞬にして瓦礫へと変えた。
 1本がファヌスの頭ほどもある爪。数本ある爪は真紅の鱗で覆われた巨大な前足についている。その先へと辿る視線は、金貨が幾枚もへばりついた砂色の腹部、そして長い首を経て、エメラルド色の瞳が10メートル以上の高さからファヌスたちを睥睨する頭部に行き着く。
 幼い頃に好んで読んだ叙事詩に描かれた描写よりも格段に大きい。
「これが、竜か」ファヌスはただ見惚れてしまう。叙事詩の竜は勇敢な騎士に弱点を一突きされて屠られたが、目の前の圧倒的な存在に対しては最早戦うという選択肢が現実的な行為として想像できない。
 偉大な怪物への憧憬に似た感情はファヌスに死を容易く受け入れさせそうになったが、最後に残った一種の職業意識が、少なくとも術師だけは逃がそうという意志を芽生えさせた。既に大きくなっていた師への尊敬の念もそれを後押ししたのかもしれない。ファヌスは大袈裟な雄叫びを上げて剣を掲げながら赤竜に向かって走り、ミルティンに振り返って逃げるよう叫ぶ。
 ファヌスの方を向いた赤竜は口を開いたが、そこから放ったのは熱炎ではなく言葉、おそらく何かを尋ねている言葉だった。

 ミルティンはさっきよりも早い口調でそれに答える。ファヌスは両者の間に立って剣を掲げたまま、言葉の応酬の狭間に立って石化の術でもかけられたかのように固まっていた。
 と、聞いたことのある音の並びが耳に届き、しばらくしてそれが自分が普段使っている言葉だとようやくファヌスは気づく。
「ーーーー宝石はどうした、と訊いている」
 苛立ちが混じったミルティンの声に「宝石?」と訊き返すと、ファヌスが阿呆のように掲げっぱなしの剣についていたはずの宝石に竜が興味をもっているのだと言う。
 柄や鞘についていた宝石を胸当ての内側に隠していた小さい皮の巾着から取り出すと、竜は大声を上げた。好物の菓子を戸棚に見つけた子どものような声。
 ファヌスの手から宝石を素早く攫い、ミルティンは竜に近づいてそれを恭しく両手で捧げる。短いやりとりがあり、黒衣の老人は折り曲げられた太い後脚の足元に近づいていく。竜がその気になれば一瞬で肉塊にされるような距離。
 そこには竜にとっての羽毛布団にあたる、大量の金貨や宝石、装飾品の類が無造作に敷き詰められている。竜の視線を受けながらそこに宝石を置いたミルティンは、さらに財宝の山の奥へ分け入っていく。
 金貨の1枚でも持っていこうものなら老人の細い身体を爪でへし折りそうな、鋭く猜疑に満ちた目に射抜かれ続けながら、ミルティンは一心に何かを探し続けている。
 気が気でないファヌスは、彼が言っていた地図とやらが早く見つかることを祈りながら、手伝おうかと声をかけても聴こえてすらいないほどの、普段の師からは想像もできない鬼気迫る情熱に驚いていた。

 ミルティンの動きが止まる。たっぷり10秒は立ったまま静止していた彼は、やがてゆっくりと背をかがめて足元から掌ほどの大きさの四角く薄い物体を拾い上げた。それを竜に見せて短く言葉を交わす。
 持ち帰ってよい許可を得たのだろうと思うファヌスはしかし、師の手にしたそれが地図には見えなかった。
 足早に棲家を去ろうとする客人たちに竜が声をかける。ミルティンが応じると、竜は首を低く伸ばしてファヌスの目の前に顔を近づけた。
 熱い鼻息が吹きかかり、ファヌスは思わず顔を背ける。竜の言葉は理解できない。ミルティンに顔を向け、通訳を目で乞うと、
「『人間はたいてい、隠されている力に気づかない。そして気づいた時にはもう遅い。』だと。どうやらお説教いただいているぞ」と笑う。直後に真顔になって、
「ご機嫌のうちに早く去るぞ。こいつは自分の餌が全滅したことにまだ気づいていない」
 と言って歩を早める。そこからはファヌスも振り返ることなく、竜の棲家から遠ざかるほど速度を上げて、荷物を置いていた場所まで一気に駆け戻った。
「最後にも竜が何か言ってたが」
 ファヌスは荷物を身につけながら不安そうに師に尋ねる。
「いや、まだ獣人の生贄が今後与えられないことには気づいていないようだ。最後のはーー」と、少し言い淀んで、
「私への言葉だろう。『絨毯を捲る者は、結局絨毯の下敷きになる』と言っていた」
 意味が汲み取れないことをそのまま表情に出したファヌスに対し、しかし師は追加の説明を加えようとはしなかった。ただ、「承知の上だ」と自らに言い聞かせるように小さく呟いただけだった。

「あれは古代種だ」
 洞窟を出て森を歩きながら、竜の巨大さに驚いたと言うファヌスにミルティンはそう教えた。
「ざっと3千年は生きているだろう。おそらくあの洞窟はさらに奥深い下層があり、元々そこに棲んでいた赤竜が、盗賊たちのコレクションの充実に引き寄せられるように這い出てきたのだろう。通常はあのような浅い地下にいるような種ではない」
 普段はこうした教示の後に、関連する知識をさらに授けてくれたりするのだが、帰路の師の口が妙に重くなっていることに、ファヌスは気づいていた。
 往きにも使った渓流沿いの場所で野営の準備を初めていると、僅かな木々の隙から星を眺めていたミルティンが改まった表情でファヌスに声をかけた。
「お前があの時竜に剣を振りかざしたのは、およそ知性のある行為ではないし勇敢ということもできないが」
 そして深々と頭を下げ、
「結果地図が手に入ったことについては礼を言う」
 神妙な調子を崩さずにそう言った。ファヌスは驚きと含羞と満足感がないまぜになって混乱したまま、あいまいに頷くことしかできなかった。
 簡素な食事を終え床に着いた師の前で、念のため剣に手を掛けたまま座るファヌスは、不規則な音を立てて燃え続ける焚火を眺めながら、長い一日を振り返っていた。
 様々なミルティンの術、竜が実在したこと、実家の宝剣の価値、竜が言った言葉の意味、そして地図に見えない地図ーー。
 浅い眠りに落ちかけながら師の感謝の言葉を思い出す。彼が礼を言ったのは、助かったことについて、ではなかった。
 本音なのだろう。これほどまでに力を持つ異端術師が、そこまで執着する地図とは何なのか、ファヌスはそれを尋ねることがまだできそうになかった。尋ねるには自らの知識も経験も不足していることを直観的に理解していた。
 そして同じように、まだ「世界を変える」具体的な方法についても、師に尋ねられずにいた。

 

散在の所

 離宮といえども賤しき者を立ち入らせるのはいかがなものかと進言したのは如何にもな見た目の古参の大臣だったが、彼自身もその言葉を王が聞き入れるとは思っておらず、ただ自分の役割を皆に示すためだけの言であることは、その場にいるほとんどの人間が理解していた。回遊できるように庭園内に巡らされた水路に屋根のない舟を浮かべて催す宴に、珍奇な衣装で好奇心旺盛な王の目を惹いた旅芸人たちが参加することを妨げるものは他になく、赤蜻蛉の乱れ舞う大池の上に設えられた板張りの舞台の上、旅芸人たちは或る者は獣の牙か角で作られた管楽器を吹き、或る者は喉を奇妙に震わせて旋律を吐き、或る者は海獣の髭を弦にしてその一本だけで多彩な音を奏で、或る者は人間の頭骨を思われるものを別の棒状の骨で叩きながら恍惚とする中、それぞれに薄汚れた身なりの者たちのうち最も背格好が小さくしかし最も目立つ男に王の目は釘付けとなった。
 元々は鮮やかな真紅であったであろう衣と石や骨を鈴なりに連ねた装身具と思われる物を身につけた小男は、跳ね回り翻り止まり急に動き四肢をそれぞれ別の生き物のように動かしてしかし目線はそれらを統治する意思をもって艶やかに揺蕩い、宴にいたもの全てを睥睨してその心を跪かせるのだった。
 その舞楽と十分な酒によって宴は正体を失い、喧嘩や乱交もそこかしこで起こり始める中、かの者の踊りにたいそう感銘を受けた素直な王は、貰うべきものを貰い離宮から立ち去ろうとしていた旅芸人たちを自らの前に呼び出し、彼に宮廷舞踏家としての地位を用意するので旅を辞め宮中に留まらないかと提案した。
 踊り子は断った。
 古今東西の芸術に通じる王はなおも、彼の舞踏は非常に文化的価値のあるものなので、国の力で保護し後進育成にも力添えしたいのだと言った。
 踊り子はなおも拒否し、退去しようとした。
 慈悲深い王は怒りを示すこともなく、大臣の諌めも無視し、決してさほど芸術的に評価していたわけではない楽曲を奏でていた彼の一族郎党皆をまとめて宮中に住まわすことも約束した。その上で公平さを旨をする王はこう言った。
「お前たち踊り子や楽団が、いかに差別的な扱いを受けているかは知っているつもりだ。これは世の中の歪みだと言えよう。私はそうした差別心はもっていない。お前を、お前の能力だけで評価する。お前も、お前の家族も仲間たちも、もうそんな酷い生活を送ることはない。」
 踊り子は観念した様子で、しっかりと王に向き直り、こう告げた。
「ああ、俺たちは不自由さ。街では入れない所ややっちゃいけないことだらけ、理由なく嫌われ蔑まれ疎まれるし、唾を吐きかけられても棒で打たれなかっただけましだと思うくらいだ。
でも世の中、できないことよりできることのほうが比べものにならないくらい多いし、俺らを拒む場所なんてこの広い国のほんの一部分に過ぎない。
俺たちはどこにでも行ける。決まりに縛られもしないし、大切に持っておくもんもないからいつでも身軽に動き出せる。
あんたらから見れば俺らは可哀想な爪弾き者なんだろうが、俺らからしたらあんたらの方がよっぽど窮屈で哀れに見えてるんだ。
俺らから自由を奪わないでくれ。
俺らをあんたらの理屈の中に閉じ込めようとしないでくれ。そんなことをされたら俺たちはあんたらの作った決まりやら何やらに取り込まれて、それこそ“哀れな爪弾き者”として定着しちまう。
それに」
 ふうと息をついて踊り子は続けた。
「あんたらの理屈の中に入ったら、俺の踊りはつまんなくなるだろうよ。そうなったら俺もあんたもみんなも全員がただ失うだけだ」
 勿体ない、いやよく言った、などてんでに感想を喋りながら旅芸人たちは去り宴も盛りを過ぎて、後には秋風が月を映す大池の水面をただ揺らすだけだった。好奇心旺盛かつ素直で古今東西の芸術に通じ慈悲深く公平を旨とする王は、踊り子の最後の言葉を理解できずにいた。おそらくは幸福なことに。

問と解

問)空間上の任意の2直線について、それが同一平面上にある確率を求めよ。

 基本的に僕達は皆、いつもねじれていて、交わることはない。 だからこの状態にはなんの不思議もないのだ。
 僕は寝返りをうち、ベッドの右手にある窓のほうへ向き直る。冷たい空気とトレードオフの遠くまで見える視界。5階の高さでもすぐ前に川があるので展望は開けている。川の先に見える下町のほうへ手を伸ばし、その先に聳える電波塔を親指と人差し指でつまむように挟む。奥行きのない世界なら。僕の指先に塔の先端がチクリとした痛みを与えたかもしれない。でも世界は平面ではなく、当然僕の手の届く範囲はごく限られている。
 レバーを操作してベッドの上半分を少し起こす。そのひどく緩慢な動きが、ベッド上の物体への過度な気遣いが、僕に否応なく自らの病を再確認させる。
 文庫本を手に取るが、内容が頭に入ってこない。
 正確には、どのセンテンスも全て彼女のことを想起させ、その度に思考は好き勝手な方向に拡散していく。単純に彼女についての記憶が呼び起こされたり、今自分が感じとったことを彼女にどう伝えようか思案したり、彼女と自分を繋ぐヒントが含まれていないか血眼になって探したり。
 もはや読書とも言えない行為で脳内は入眠直前のようにばらついてまとまりを失っていく。もちろん僕は彼女への手も届かないことを理解してはいる。いるのだが。
 本を置き、結露して表面が濡れそぼっているペットボトルのお茶に手を伸ばす。雫が膝もとに垂れ落ちて寝間着を濡らす。腿が冷たいが、口に含むお茶はぬるい。
 ベッドの上にテーブルをスライドさせてペットボトルを置く。うまく閉められなかったキャップが手からこぼれ落ち、床で安っぽい音を鳴らす。テーブルの上で飲み差しのボトルは安定して立っているのに、ただ蓋がないというだけで異様な不穏さが辺りに満ちる。
 寝巻きに染みた水分は乾く気配もなく、大腿部の肌に違和感を超えて鈍痛を与え始める。
 床に落ちたキャップを忘れた僕がそれを踏んで足首をぐねる未来を想像する。
 全ての装置がそこに棲む者のケアのために設えられたはずの病室で、僕をケアするのが最終的には僕一人だという当たり前の事実に突き当たる。

解)空間を格子状のものとして定義しない限り、解は求められない。

 しかし僕が窓の外にこうして手を差し伸べて掴もうとする空間は、そこにある直線を束ね持ってやろうと握りしめる虚空は、
 なめらか過ぎる連続性をもった無限の大きさで。

宵前崖上逍遥

 高台沿いに延びる道は両側に商店などが立ち並び、此れと言って目を遣るべき風景も見当たらないが、省線の切り通しを跨ぐ橋を渡る時には線路方向へ視界が開け、丹沢からその奥の富士までも一望できる。冬風が帝都の澱んだ空気を海へ押し流し、雑然とした街並みにくっきりとした輪郭を与えてそれなりの絵に仕立て上げている。
 橋の名の通り、暫時富士見物を楽しんで居ると、足元を列車が通り抜けて行く。その音に怯えたのか、欄干で弛緩し切っていた三毛が機敏に飛び降りて駆け去ってしまった。瞬く間に金物屋の軒下に尻尾は消えて行き、既に駒込方向へと去った輸送機関を少し許り憾む。
 日暮れをここで眺めるという考えも一時頭を過ぎるが、余りに情緒のない騒音と、意外な程の人通りの多さに、これ以上立ち停まる事は出来ぬと再び歩き出した。
 私の足音はカラコロと愉快に鳴ることは無い。子供の時から親に注意されてもまるで直らなかった摺り足癖に依って、ジメジメと陰気な足音がいつも私に付いて回る。下駄は早く減るし転びやすいし音で気鬱になるし、良い事無しだが、どうにも直らない。
 冷たい風に促されるように背を押され歩く。途中に見えた郵便局で不精している送金の手続きをしようかと思案するが、矢張面倒で辞めてしまった。向かいから歩いて来る女性が、砂埃が立つ程の風に狼狽していて、その仕草に私から去った人の面影を見るが、擦れ違い様に眺めるとまるで似ても似つかない。
 本格的に陽が傾いて冷え込み始め、身体を温めたくもあり歩を早める。日が沈む前に諏方神社に着けるだろうか。田端の切り通しを渡る頃にはすっかり空は紅くなっている。
 何れにせよ、間に合いはしないのだ。私はその事を十分承知している。今更神頼みして何になろうか。参拝だって今ふと頭に浮かんだ仮初の目的に過ぎない。悔恨と両脚を引き摺って、私は行く宛て無く歩いていただけだ。
 道灌山を降りて道路を渡り、急な階段を登れば神社は直ぐ先だ。黄昏時に残された薄明かりの中手短に参拝する。他人の幸福を祈る事は誰にでも与えられている権利であろう。その相手が其れを全く望んでいないとしても。
 日暮れを名乗る町の日暮れは去り、焼けていた空の名残は紫色に塗り潰されてゆく。てんでに夕餉の匂いを振り撒く人家に挟まれた細い坂を下り、曖昧になっていく富士の稜線を惜しんでいるといつの間にか明星がいやに明るく輝いていた。
 如何に眼を凝らしても、月とは違い、金星の満ち欠けは確認する事が出来ない。月も随分遠くにあるのだが、金星は更に遠くで地球とは関係なく独自の運動をしていると聞く。日々面持ちを変える月も、表情までは見えずとも宵空に燦めく明星も、此処から見て美しい事に変わりはない。だとしたら隔たりが損ねてしまうものとは何であるのか。
 畢竟それは寂しさであると独り言ちて、私は谷田川沿いの鰻屋で酒に身体を暖めてもらうなどするのだろう。女将と意味の無い遣り取りをしながら、白焼を突つくなどするのだろう。そうして川を遡り歩き慣れた帰路に就くのだろう。それが今迄に何度も重ねて来た同じ時間同じ光景同じ台詞同じ味同じ道筋だとしても、そうするのだろう。
 私は円環状のレールに嵌ってしまったパチンコ玉のように同じ所を回り続けるだけなのだ。その軌道は二度とあの人とは交わらない。