四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

そのような全てを軽々と飛び越えて

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「実は」
 とテレサ様は語り始める。この旅の間、簡単な用事の申し付けを除けば話しかけられることなどなかった付き人の私は、最初は長くなるお話だとは微塵も思わずに拝聴する。
「私には信仰よりも大切なものがあるのかもしれません。」
 馬車の窓から外を見つめながら、小声でしかし確かにはっきりとそうおっしゃった。

 疑問を差し挟む間もなく、お話は続く。
「信仰は大切です。私はルイザをはじめ僧院の方々のことが大好きで、その皆さんと共有出来る唯一にして最大のものが神への崇拝です。」
 私は私の名前が最初にあがったことと、「大好き」という言葉につい有頂天になってしまう。
「私の居場所は神への信仰にあります。いろいろな方々と神についての尊い議論を重ね、また瞑想も続け、何度か苦行も体験し、神が在らせられる実感に到達できたこともあります。」
 敬虔さと自らに課す苦行の厳しさで国中に知られるテレサ様を知る人には、これがいかに謙虚すぎるおっしゃりようかは分かるだろう。
「私は信仰と完全に重なり合うことを理想にしています。皆そうだと思います。これは嘘ではありません。」
「もちろんです。疑う者などこの国にいないでしょう。」
 私はまたつまらないことを言ってしまう。
「でも」
 車輪が石に躓いたのか、馬車が大きく揺れた。一旦馬を止め、御者は下馬して車輪を確認しにくる。その様子をテレサ様はお優しい目つきで追っていらっしゃる。

 問題なく馬車は再び走り始めた。
「でも、他の全てのものが色を失って、この世界に或る鮮やかな一つのものだけしかなくなってしまったように見える、いえ、私とその鮮やかな何かだけでできた世界が新たに生まれる、そんな時があるのです」
 私にはテレサ様のおっしゃることが分からなかったが、そのお言葉に不穏な何かを感じとることはできた。
「それは『よくないこと』なのではないですか?」
 私は愚かで素直なのだ。

 少しの間、テレサ様は黙っておられた。
 私の席側の窓から夕陽が差し込み、テレサ様の横顔を神々しく照らし出す。
 それに見惚れていると、急にこちらに向き直られたので、私は照れを隠せない。テレサ様は少し口調を変え、私に尋ねられた。

「心の中に風が吹いて、無闇に駆け出したくなるような気持ちになったこと、ルイザにもあるでしょう?」
 テレサ様にそう言われると、きっとそうなのだろうと思ってしまう。テレサ様は私なんかより私のことを分かっていらっしゃるだろうし、何よりそれを言葉にすることがお上手だ。そのような私の思考停止ぶりを見透かすように、
「どうなのですか? そういう経験、覚えがありませんか?」
 顔を近づけ、私の中を覗き込むように、どこか子供じみた無邪気さを見せながらお尋ねになる。

 私はある日の出来事を思い出してしまう。
 ミルク売りが僧院にいつものように羊乳を届けにきた。チーズ作りを担当している私は、いつものように代金を支払い、いつものように甕を受け取り、空の甕をお返しした。何かの拍子でミルク売りと目が合ってしまい、慌てて目を伏せた。ミルク売りも何も言わず立ち去ったが、もう一度だけ何故か私を振り向き、私も彼の後ろ姿を何故か追っていたため、彼と私はまた目が合ってしまった。
 それだけの話だが、私には形容や分類ができない奇妙でどこか後ろめたい経験として、ずっと心にしまわれていたのだ。

 私がそんな記憶を呼び覚ましたのを知ってか知らずか、テレサ様はお続けになる。
「そうなってしまうと、もともと私がいた場所が、そして私自身が、とても索漠としたものに見えてくるのです。
もともとの自分に意味がないとは感じません。信仰が消えてしまうわけではない。でも正直いつかそれを失うのかもしれないと感じることはあります。
ある瞬間に自分が、さっきまで話していたことと全く違う行動をとってもなんら矛盾を感じないだろう、そんな確信すらもててしまうのです。」
 もうやめて欲しかった。私の崇敬するテレサ様。なぜそのような澄んだ瞳でこんなお話をされるのですか。

 言葉を失っている私に構わず、テレサ様は軽やかなお声で滑らかに言葉を重ねられる。
「もちろんそのような自分を恐ろしく感じる自分も残っています。
愚かだと自制を促す気持ちもあります。
でもそれよりも、自分の『駆け出したくなる気持ち』を理性や秩序で封じ込めてしまうことのほうが、不実で不潔で、何より大変醜いもののように感じてしまうのです。」
 御者がこちらを振り返り、あと少しで僧院の山の登り口に着くことをぶっきらぼうに告げた。
 ここから揺れが激しくなるからだ。テレサ様は丁寧に御者に謝意を述べられた。

「神と信仰について、当然考えます。禁欲的でなければならない。そう考えます。
しかしその衝動的で鮮やかな思いの先にあるものと、神が時に我々に指し示してくださる真実とが、非常に近いものにも感じられ、
私は幸運にも神と一つになる体験をしたこともありますが、それと同じくらいか、あるいは」
 ほとんど歌うように言葉を紡ぎ出していたテレサ様は、ここで少し呼吸を置き、
「その先にいけるかもしれない。そういう確信を感じてすらいるのです」

 私はほんとうに怖くなってきた。テレサ様のおっしゃることが神のお考えに反いているかもしれないという恐怖ではなく、私自身が『駆け出したくなる気持ち』にはっきりとした共感を覚えてしまっているからだ。
 もうすぐ僧院に着いてしまう。着いたら何か取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。何故そう思うのかも分からない。私は混乱していた。

「神のご意志は、果たしてどこにあるのでしょうか。
私たちのーー」
 テレサ様は私「たち」と言った。私は怖いのにテレサ様から目を逸らせない。
「私たちの側にこそ、神は寄り添ってくださるのではないでしょうか」

「でも、聖典にはそのような記載はありません。」
 私はほとんど泣きながら、ろくに読み込んだこともない切り札に縋った。
聖典はどこをとっても正しいことが書いてある素晴らしいものです。
そこに綴られている言葉を発せられたのは、そしてそれを書きまとめてこられたのは、どんな方々だと思いますか?」
「私など及びもつかない、高い位の清らかな方々だと思います」
という私の凡庸な答えは、口に出す前にテレサ様の言葉でかき消された。

「男のかたには、分からないのですよ。」
と言ってテレサ様は笑った。
 その笑顔より美しいものを、私は死ぬまで見ることはなかった。



inspired by “Gene Bride”(Takano Hitomi)