四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

『ほとんど無害』(未読)

 こうした形で月が再び脚光を浴びるとは思わなかった。
 それは自分だけでなく、人類共通の感慨だろうとシアンは思う。
 彼が初めて月を訪れた頃、人類はやっと自分たちが永遠に拡大し続けることなどないという当たり前の事実に気がつき始めていて、月面におけるほとんどの開発計画は頓挫しており、宙港はかつての賑わいを失い施設の老朽化だけが目立っていた。
 それでもシアンは初めて地球以外の地面を踏むことに心躍らせたが、それは10代という若さもあったからだろう。あの胸の高鳴りを思い出すことは難しい。定期便のクルーとして月面往復が仕事になった今となっては、月に着いてグラビティコントロール通過時にパスポートに刻印されるデジタルサインに何のときめきも感じたりはしない。

 その仕事がにわかに忙しくなってきた。
 年に2便まで減っていた定期便が月1便に増便され、使う船も大型化した。
 人間の往来は全く増えておらず、船のほぼ唯一の目的は、月でしか得られないある植物の種子を地球に運搬することだ。種子からほんの微かな量だけ抽出されるある成分が、食品添加物として利用される。食事を接種する最終段階で使用されるという点では、調味料あるいは香辛料に近い。特有の成分が摂取者にある効能をもたらす。
「同じ重さで黄金の約20倍の価値がある」という大時代的な形容はしかし大げさではなく、地球での爆発的な需要増加により、送れども送れども恒常的な品不足とそれによる価格高騰が続いている。

 シアンはまだその香辛料を使ったことがない。一般人が口にするにはまだまだ高価すぎる代物なのだ。
 しかし月で栽培場を見れば分かるが、元々の生産コストはほとんどない。月面の地価は(ここ数年で10倍以上になったとはいえ)まだまだ安いし、植物は大規模ハウスで自動栽培、自動収穫され、病害や虫害はほぼない。個体に対する種子が少なくまた小さいので、純粋な生産量としては限られるが、加速度的に栽培場も増えているので、現状の価格高騰は供給側のコントロールによるところが大きいのだろう。
 いわゆる月面変異植物なので地球ではどうしても育てることができない。また生態系法の縛りで栽培業者も限定される。まぁ奴らの絵に描いたような成金ぶりと言ったら。
その利益は輸送業者には分配されず(ただ仕事が増えた分、カネを貰えるだけだ)、結果シアンはその風味を知らずにいる。

 種子の地表輸送に携わる友人が、シアンを訪ねてきた。対面で会うのは10年以上ぶりだ。仕事で間接的に繋がっていると言っても、地球の業者が月にわざわざ来ることはコストもかかるので稀だ。学生時代以来の再会を素直に喜びながら、シアンは彼の来訪の本当の目的を訝しんでいた。
「俺もまだ味わったことないよ」
 すっかり白くなった髪をかき上げながらダグは言う。まぁ地上の業者にも栽培業者からのおこぼれはないだろう。しかもこいつのような勤め人は、自分と同じで給料が劇的に上がるわけでもなく、手当てとボーナスがちょっと良くなるくらいなんだろう。
「あのスパイスの味は知らんが、月の料理の質はめちゃくちゃ上がったぞ」
 シアンはダグを中級レストランに案内した。ダグは料理を気に入ってくれたようだ。
 地球からの打ち上げ便はいつもほぼ空っぽでやってくるが、それももったいないということになったのか、重さがなく高価なもの(奢侈品や高級食材)が少しずつ月に入ってくるようになった。何しろ月には今、カネの使い道に困っている奴らがいる。そのおこぼれにあずかっている形なのは癪にさわるが、美味いものを食べられるのは正直ありがたいとシアンは思う。
「セルヒネ様々だな」
 ダグの言葉にシアンは苦笑いで頷く。

 セルヒネはもともと地球の植物で、キンポウゲなどの近縁の一年草だという。
地球から持ち込まれ、いわゆる地球の肥料(窒素リン酸カリウム)を与えて栽培を続け、数代重ねて月面に適応すべく変異したものだ。
 シアンが月に来る前は、この種の月面変異種作りが異様に盛んな時期があったという。
 月面に適応する上で、いくつかの植物は炭素を珪素に置換することに成功する。その変異種から抽出される珪素置換窒素有機物、いわゆるシリカロイドが、主に医療分野において何か目覚ましい技術革新を生み出すのではないかと期待されていたのだ。
 もちろん人類に有用なシリカロイドはコントロールして生み出せるものではない。しかし一種の射幸心から、地球からの種の持ち込みが乱発した時代があったのだ。
 それを歴史として知っているシアンからすると、その熱狂自体が理解できない。そんなうまい話があるはずがないと誰も冷静に考えられなかったのだろうか。いや、それが時代精神というものなのだろう。

「俺らはさ」
 シアンは自分がもう少し早く生まれたかったという主旨のことをダグに伝える。熱狂の中にいたかった、自分が来た時には月はもう終わっていたと。
「分かるが、今また熱狂が始まっているんじゃないのか?」
 ダグの言葉にうまく反論できないのだが、シアンは今のセルヒネ・バブルと過去の熱狂は違うと感じている。今は計算できる可能性の範囲内で人流物流が盛んになっているだけで、そこには狂気がない。マネタイズで動いててつまらんという卑小な話ではなく、世界の可能性を信じられているかどうか、そこが決定的に違うのではないかと。
 シアンの拙くも誠実な言葉を、ダグは理解してくれたようだった。
「でもそれは」
ダグは今日初めてシアンの目を見て言う。
「俺たちが俺たちの可能性を信じられていないからじゃないのか」

 その日、ダグはもう少し何か話したそうだったが、お互いにいい酒を早めのペースで飲み過ぎたこともあってか、その後は学生時代の他愛ない思い出話にふけるだけだった。まだしばらくは滞在すると言うから、シアンは今度月面の観光案内をする約束をして別れた。
 ホテルまでダグを送った帰り道、広場のサイネージに例の広告がまた踊っていた。
「何度でも初恋の味!」
 この糞みたいなコピーの後、香辛料の商品名が大きく出てくるその下に、少し前まではあった細かい注意書き(小さいし表示時間は短いし常人が読めるものではなかったが)がなくなっている。曰く用法用量が、摂取し過ぎは、自己の責任において云々、というアレだ。
 代わりに「副反応は認められていません」という文字が大きめ長めに表示されている。研究が進んだのか、都合の良い法改正が行われたのか。
 繰り返される映像では若い娘がスシかなんかを食っている。その年なら初めて食う味で当たり前なんじゃないか。シアンは小さく声に出して吐き捨てる。

 セルヒネから抽出されるシリカロイドには、同時に摂取する飲食物を、初めて体験するかのように味わわせる効果がある。
 これは画期的な発明で、最初は美食趣味を自認する者たちに広まった。自分が確実に美味しいと感じられるもの(過去にそう感じた経験があるもの)を、今まで経験したことがない料理として味わえる。特に年齢を重ねてある程度美味を味わい尽くしている人間にとって、この効果は福音だった。
 このイノベーションは、もはや挑戦すべきことや取り入れるべき技術がなくなって、名作料理の悪しきパロディか、あるいは理解不能な抽象芸術に堕し始めていた美食という分野の行き詰まり自体をも打破した。何しろ新しさはもういらないのだ。美味しいものを作ることに専念すればよい。作り手にとっても救世主となったのだった。
 どんな美味でも、最初に味わった時の感動に優る体験は二度とできない。その今までの常識が、完全に打破されたのだ。

 もはや見渡す限り栽培場しかない月面を俯瞰できる、旧コントロールタワー。一応ここが月面観光(と言えるかどうか)の目玉ということになっていて、迷いながらもシアンはダグを最上階の展望室に案内した。
 意外なことにダグには好評で、彼はぐるりと360°、ゆったりと見物していた。そこかしこに見てとれる、人間が宇宙開発に希望をもっていた時代の未来都市の残骸。長く打ち棄てられたままになっていたそれらは、新たな栽培場造りのためにやっと片付けられ始めている。
「何しろ、空いてるのがいいよ」
 ダグの言う通り、客はシアンたちしかいない。
 フロア中央のソファに深く腰掛けて、ダグはやっと切り出した。
「私船での輸入を考えてる」

 なるほど、それで自分を船の乗り手として雇いたいというわけか。シアンは得心した。
 確かに小さな船ならシアン一人で発着まで行えるだろう。正規の宙港を使わずに月をうまく出ることさえできれば、地球へ着くのは船さえちゃんとしたものならさほど難しくはない。しかし。
「命懸けだな」
 法に触れるのはもとより、栽培業者が組織する自警団、実質上の月面軍が怖い。彼らは大きな権限を月面自治政府から与えられていて(税収の9割を納めてるのだから当然か)、不審船は有無を言わさず撃墜する。
「でも、一度で一生遊んで暮らせるほど儲かるぞ」
 ダグの言う通り、地上での精製・販売ルートさえ抑えていれば、小さな私船に詰め込んだだけの量でも十分だろう。
 しかもダグは正規のルートは使わないという。
最近、そのシリカロイドの食以外への転用が研究されていて、アンダーグラウンドでは性の分野でかなり使用され始めているという。粘膜摂取によって初めての体験だと感じたりするのだろうか。
 シアンの疑問にダグは使ったことがないから分からんと答え、しかしカネになるのは間違いないと確約する。
「俺は初めてのセックスはまるでうまくいかなかったから、その使い方はしたくねぇな」
 シアンは笑ってそう言いながら、この馬鹿げた提案を受け入れるという選択肢が自分の中に生まれ始めていることに驚いていた。

 ダグの計画はかなり進行していて、セルヒネの仕入れルートどころか船のレストアまで手配済みだった。その手際の良さからむしろ、シアンは自分は何番めかの操舵手候補だったのだなと気づく。すでにダグ自身が月まで来ていたわけだから、ギリギリで前の候補が逃げたのかもしれない。
 逃げる気持ちも分かる、とシアンは思う。自分と同等の操船技術があれば、この月航路バブルの時代に食うに困ることは絶対にないし、ちょっと無理すればかなりの収入を得ることも可能だ。ではそれを捨てようとしている自分の背中を押したのは何だろうか。
 レストア船は驚くほど良い状態だった。ダグは船にだいぶカネをかけたらしい。まぁ計画成功の最大の鍵だから当然だが、おそらくダグは全てを賭けている。試運転を終えたシアンはダグに問題ないと伝えた。
「俺以外の空間が全部種で埋まるっていう、居住性の問題を除けばな」

 1週間後、シアンは準備を終えたダグを見送りに宙港を訪れた。
 計画は何度も確認した。ダグは先に地球に戻り、太平洋上の着水地点で待つ。そこがセルヒネの取引地点ともなっていて、シアンとセルヒネを積んだカプセルをボートでキャッチしたダグの元に、取引相手の非合法集団が現金をもってクルーザーでやってくる手筈だ。
 大気圏突入からはプログラムによる自動操縦なので、やはり計画の成否を握るのは月からの脱出、つまりシアンの手腕にすべてがかかっているわけだ。
「信頼してくれと言いたいが、こればっかりは約束できない」
 正直にシアンは言う。ダグは首を振りながら、どうせギャンブルみたいなもんだと言う。お前が撃ち落とされたら、その少し後に俺もマフィアに撃ち殺されるさ、と軽い調子で言った後に、意外なことを口にした。
「実は、お前に操舵手を断られたら、計画を断念しようと思ってたんだ」
 最初から自分以外の候補は考えなかったとも言う。シアンは驚く。そこだけやけに雑な計画じゃないか。
「もしそうなったら、地球にはもう帰れないから月で野垂れ死のうかってね」

 俺が断らないって信じてたわけか。こいつはバカだ。計画の最後のツメのとこでこんな甘い考えをしてたとは。シアンは呆れる。
 一体何を信じてた? 友情? 過去の絆? 現在への閉塞感や苛立ちの共有? そんなものに人生を賭けたのか。ほんとのバカだ。
 そして当然、俺もバカだ。
 シアンはすがすがしい気持ちでダグと握手する。
「じゃあ、運が良ければまた」
 計画の可否はわからないが、シアンはすでに大きな何かを得た思いで宙港を後にする。

 右舷に深刻な被弾をして、長時間のアナログ操船を余儀なくされ、大気圏に突入する時にはシアンは完全に気を失っていた。
 視界が戻った時は既に洋上で、呼吸マスクを外したシアンは取引の最終段階を目にしていた。どうやら何かの難癖をつけられて、少し値引きされたようだったが、ダグはしつこくゴネはしなかった。それでも十分な金額だ。正直、カネのことなどどうでもいいというのがシアンの今の偽らざる思いだった。
「アンタら2人とも使ったことないのかい?」
 一番下っ端っぽい男が、どうやらそんなようなことを言っている。
 ダグの翻訳によると、理論上は静脈注射しても無害な物質で、それをすると見るもの触るものすべてが新鮮な、最高の状態が味わえるらしい。
 サービスだと言って、精製済みのアンプルと注射器を2セットくれて、彼らは去っていった。
 月に初めて降り立ったあの時の感覚を思い出せたりするのだろうかと、シアンは思った。
 現金をボートに詰め込んだ後、シアンとダグは注射器を手に取り、顔を見合わせる。

「セルヒネ由来のシリカロイドを血管に注入することで身体的な危険はありません。物質としては無害です。摂取後の効用には個人差がありますが、初めて自我を意識した体験を追体験することになった場合には、摂取者に多少の危険が起こり得ます。この世に生まれた絶望、圧倒的な失意、自分のものがごく限られた範囲にしかない悲しみ、などを繰り返し感じることになるからです。繰り返しになりますが、物質としては無害ですが、直接の血管注入は積極的に推奨はできません。代わりに我が社の新たに開発した製品の……」

 シアンはボートを操りながら、宙と海は加減が違うなと当たり前のことを言って笑う。
「おいおい家に帰るまでが遠足なんだぜ、気を抜くなよ」
とダグも笑う。
 二人は注射器を海に投げ捨てていた。
 あんな「初めての経験」をした後で、「それをもう一度」とは思わない、二人の一致した結論だった。