四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

ふりかえる

 花粉症の時は、イヤホンの上からマスクをしていた。ウイルスに脅かされる今は、マスクをしてからイヤホンを着ける。マスクを取り外す場面が、そうはないからだ。
 ランダムに選ばれたPizzicato Fiveの『キャッチー』という曲が再生される。チョコとか洋服とか音楽とか東京タワーがキャッチーだと呪文のように唱えまくる歌だ。目の前の疲労感が漂う夕景に似つかわしい曲かは微妙だ。

 歩いて駅前に向かう。道ゆく人はほとんどマスクをしている。
 織田作之助が引いたジンメルの言葉「軽佻か倦怠かの二択」を思う。高度な情報化によって、都市生活の狂熱は世界の隅々にまで行き渡った。その熱に浮かされて神経を高揚させ続けるか、倦怠の海に沈むか、いずれか一方を必ず受け入れねばならない双極性は、「現代」という名で浸透していたと思う。ほんの少し前までは。
 浮薄が許されぬ社会が顕現した。そこには戦時中のような見せかけの一体感すらもなかった。我慢という意志のある言葉よりも、遠慮という消極性がしっくりくる状況。
 鼻と口を露出させることなく歩く人々は、粘度の高い大気に押し潰されて飛び立てず、地面にへばりついた鳥のように見える。
 イヤホンから流れる音楽は、古色蒼然たる響きを奏でている。あの頃は軽佻か倦怠か、僕たちにまだ選択権はあったのだ。それほど昔の話ではない。記憶としては近いのに、感覚としては果てしなく遠い。

 馴染みの和食屋に着く。もう一年近く、この店以外で外食をしていない。
 テレビのニュースを見ながら、「ざんないなぁ」と女将は言う。最近の口癖だ。最近知ったのだが女将は僕と同い年で、実はカラオケ好きだという。僕はツブ貝をほじりながら、女将がカラオケで歌う曲を想像する。同世代ならではの選曲なのか、それとも意外と最近の歌を歌うのか。
 いずれにせよそれは、決して開催されることのない架空のイベントだ。
 夜明けの定義のはっきりしない夜が続いている。
 いろんな人がいろんなものを奪われた。
 卒業旅行だけじゃなく、そこでするはずだったあの子への告白が。
 飲み会だけじゃなく、ふと横目に見るはずだったあの人の意外な笑顔が。
 スポーツ観戦だけじゃなく、苦しい時に思い出すことになるはずだった決勝ゴールの美しい軌道が。
 遠距離の彼氏が誕生日にいつもくれていた花束だけじゃなく、花瓶に生けたその花が少しずつ散っていく切なさが。
 ライブでの音の洪水への恍惚感だけじゃなく、アンコールで歌われる歌詞に背中を押されて決断するはずだった人生の重要な分岐点が。
 女将はうんざりしたような溜息とともにテレビを消して、僕が最後に注文した蕪の煮物を運んでくる。

 つい長居する、という習慣もきれいに身体から取り除かれている僕は、満腹とほぼ同時に会計を済ませて店を出る。
 今日も客は多くなかった。この店がなくなると困るなと、手前勝手な心配ばかりをする。実際にこの並びでも2軒が店を閉めた。
 津波で流された飲食店の跡地。誰かが探してきた調理器具をそこに置いた。このまま店を閉めることを決めていた店主は、それを見て再開しなければならないと思った。そんな話があった。
 カタストロフで失われたものは、物語で再生し得るのかもしれない。
 でも、そうではなく知らず知らずのうちに損なわれていったものの場合はどうなのだろうか。
 頭を下げてやり過ごすうちに目を上げたらいつの間にか奪われていた場合は、どうしたら再生できるのだろうか。

 イヤホンからはcorneliusのファーストシングルが流れている。「ピチカートの曲にフリッパーズの歌詞、そんだけ」、かつての相方はそう酷評した。
 今思えばそれで充分ではないかと思う。POPであるということはそういうことなのではないか。軽佻浮薄を思い切り消費できる環境にあったからこそ、沈鬱停滞倦怠を弄んでもいられたのだ。

 耳に響く音は、何一つ変わっていないが、聴く側は変わってしまった。決定的に。