四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

祈る

 自転車で来てた頃の方が近く感じたな。バスを降りながら、大きな鳥居の脇の奥に見える駐輪場に目をやって、毎年のようにそう思う。学生時代を過ごした古都、その中でも有数の歴史ある神社。私は卒業してこの町を離れてからも、年末の恒例行事としてここを訪れている。隣に後輩の女の子を連れている点だけが例年と違っている。
 初詣は混むから嫌、というおよそ信心深さを感じられない理由で毎年そうしてきたが、私はわりと超自然的な存在を信じるほうだ。そんな意味のことを言うと、彼女はふふんと鼻を鳴らして「ここは空気が清涼で、心は清らかになる気はしますが、私は神様の存在は信じてませんよ」と言う。どうやったらそんな可愛らしい冷笑ができるのかと、いつもながら羨ましく思う。
 彼女は歴史的建造物が好きで、私の「帰省」に付き合うことになった。歳の離れた女二人の旅は(私だけかもしれないが)けっこう楽しく、自分の好きな場所を気に入ってもらえる喜び、という中年あるある感情を私は存分に味わっていた。
 参拝を済ませ、近くのお店で漬物をがっつりせしめ(これも恒例行事)、この停留所始発のバスに乗り込んで、出発まで時間があるうちに席を確保する。彼女は急に口を開く。
「八百万の、というのはまだ理解できなくはないですけど、全能の神、なんて絶対信じられません。そんなのがいるとしたら、世界にはなんでこんなにたくさんの不幸があると思います? おかしくないですか?」
 おかしくないですか?は彼女の口癖だ。仕事場でもたまに口にしている。そして私は彼女がそれを口にするのが好きだ。
「でもさぁ」と私は意図的にゆっくりとした口調で話す。「それって人間の不幸を、というか人間とその営為を過大評価してない? 人間が不幸だなぁとか感じてても世界はこんなふうに美しいし、そんなら神様はそれでオッケーなのかもよ」
 私の本心だ。例えばジオラマを作っていて、或る一部分の構造物に不公平で過大な負荷がかかってるかなんて、作り手は気にも留めない。あくまで全体の完成度が最優先だし、一部が壊れたら後で直せばいいだけだし。
 バスが動き始める。
「全能の神様がこの世界を作ったとしたら、空間的にも時間的にも人間なんてごくごく一部の存在でしょ。だから人類が不幸まみれでも神の全能性は否定されないんじゃない?」
 彼女は頷きも首を振りもせず、言葉を返さないまま窓の方へ顔を向けた。冬の低い陽射しが私の背の方から彼女を照らして、思索する横顔の美しさを際立たせる。
 私は彼女がさっき口にした「たくさんの不幸」という言葉について考える。彼女がどんな問題を抱えているのか、仕事上のこと以外は私には分からない。仕事上のことだって、下手したら一割くらいしか理解してないかもしれない。問題なんて抱えてないのかもしれないし、それはどんなにコミュニケーションをとろうが他人が踏み込める場所ではない。ただ当然、手を差し伸べたい、という気持ちにはなる。もちろんそれは彼女のためというよりは、我欲だ。自分が他人の人生に影響を与えたいという、醜い感情だ。
 バスは順調に停留所を飛ばしまくって進む。次の停留所を案内する放送が流れた時には既にそこを過ぎ去りそうな勢いだ。私はバスが大きな通りに出た後の、広いグランドを持つ高校前の停留所で降りるため、バスの現在地把握に集中する。
 とまりますボタンをタイミングを間違えずに押して無事に降車した私たちは、停留所の目の前の建物の3階にあるお店に入る。化粧っけのないおばさんのような内装の中で、冷蔵ショーケースだけがピカピカと輝いている。ここのケーキは絶品なのだ。渋る彼女を絶対に後悔はさせないと説得して、一人2種のケーキを注文する。
 美味しいものを口にした瞬間の、軽く飛び跳ねるように身体を上下動させる彼女の仕草が好きだ。右手にフォークを持ち、左手は頬の近くで掌をひらいて、彼女は最高の笑顔で身体を動かす。後悔ないでしょ、と言うと、味的にはないけれど、後で体重計に乗ったら後悔は絶対します、と強い口調で言い切った。
 あっという間にお皿は空き、二人とも紅茶を飲みながら日暮れが近づく窓の外をぼんやりと眺めていた。
「仮に神が人間に興味をもっていたとしても、人間の感情ってそんな重要なもんじゃないってことなんですかね。感情なんて脳の機質的な障害みたいなものでしょうし。つまり神は人類の不幸を改善すべき状態だと捉えてなくて、だいたい改善って言っても善悪という基準がそもそもあるのかどうか不明だし」と最後の方は独り言のような音量で彼女は口にする。私は丁寧に頷きながら聞いている。そして彼女の表情から何かを読み取れないか懸命に探してみるが、その努力は実らない。
「じゃあ何が創造主の行動の指針になってるんでしょうかね」
「美しさ」間髪入れずに私は答える。「世界の美しさ、これに尽きると思う。ジオラマでも小説でもなんでもいいけど、私たちが閉じた一つの世界を作るとなった時に、その価値を決めるのは美しさでしょ?」
 彼女は感情の読み取れない目で少しだけ私を見て、その後はずっと窓の外を眺めていた。眼下に見えるグランドでは、部活だろうか、高校生たちがラグビーの練習をしている。大きい子たちは集まって何やらぶつかり合い、比較的細い子はボールを走りながら渡し合う訓練をしている。一番奥では一人でぽつんとゴールに向かってボールを蹴っている生徒がいる。彼女は彼の蹴るボールの軌道だけを見ているのだ、私は理由なくそう確信する。
 再びバスに乗って町の中心部に戻る頃には、すっかり日は暮れていた。
 私たちはホテルでそれぞれの部屋に一旦戻り、夕食を予約したお店に向かうためにロビーで待ち合わせた。彼女がエレベーターで降りてきて、ホテルを出ようと思った瞬間、突然激しい雨が路面を叩き始めた。傘を借りようとフロントに向かうと、一人の外国人客が何やら強い口調で感情をぶつけている。ホテル側は今ここにいる全員で彼への対応に当たっていて、私は肩をすくめて彼女の座るソファに戻った。
 夕食のお店に少し遅れる旨の電話をかけ終えた私に、
「で、今のこの世界ってどうですかね。美しいですかね」
 と彼女は質問する。収まらない雨音を聴きながら私が答えあぐねていると、
「どこからのどんな視点で見ればいいのか分かんないですけど、おそらく基準は総体として美しいかどうかですよね。さっき「今」って言いましたけど、私たちの言うところの「今」よりも神はもっと長いスパンで視てますよね。動体としての美しさを視てるというか。そういう時間的な制約だけでなく、私たちには視点の限界もあって世界の完全な外側に視点はおけない。だから、結局美しいかどうかなんて私たちには絶対に分からないってことになりませんかね」
 珍しく焦るような口調でまくし立てた後、彼女は少し泣いているように見えた。瞳が潤んでいるわけでも、泣き声をあげているわけでもないのに、なぜかそう見えた。小さな肩は、少し震えていた。
「世界が」
 私は慎重に答えようとする。
「世界がこうやって何となく続いてるんなら、多分だけど神に美しいって思われてるんじゃないかな。そうやって勝手に予測してやってくしかないと思う。たぶん人類は早晩滅びるけど、そこには動体的な美しさが絶対あるはずだと信じてる」
 彼女は初めて会った人を見るような目で私を見ている。雨音は少しずつ弱くなり始めている。
 私は続ける。
「私たちはただその美しさを眺めながら、それに立ち会えてよかったなと感じるしかないんじゃないかな。で、そのためには」
 フロントのいざこざがひと段落したようなので、私は傘を取りにいく。離れたところから見る彼女はとても小さく、迷子であることをまだ自覚していない子供のようにも見える。
 でも、近づいて傘を手渡してもう一度彼女を見ると、いつもの冷笑を浮かべているのだった。
「じゃあ、その美しさを感じ取れるようになっておかないと、ただ滅びて辛いってことになっちゃいますね」
 その言葉にこもっていた覚悟より強靭な感情を、私はそれ以降見たことがない。