四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

かくて神は身罷られスパイスの芳香だけが残る

 暇なので南インド風カレーでも作りながら、神の不在について考えてみましょうか。
 まず中華鍋を用意します。“爆”って感じの鉄の本格的なやつは「結局そんな火力、ウチにはないやん」ということで使わぬまま錆びつき、この前捨ててしまったので、形だけが中華鍋型のテフロン加工なんちゃって中華鍋です。
 いわゆる「神の死」について、利用機会がなく錆びついて捨てられた、つまり有用性が失われたから神はいなくなった、という考え方はあるのでしょうか。でも、有用性故に存在していたとしたら、それは共同体で共有し得る単なる社会常識や法であり、神とは呼べないと思います。そもそも代替可能な神ならば、わざわざ死を喧伝されたりしません。
 ちなみにこの鍋にはぴったり合う蓋があるのが素晴らしいのです。蓋は後になくてはならない役割を演じてくれます。鍋の真ん中に油を垂らします。大さじ3と言ってみるけど目分量です。ハンドメジャーってやつです。大さじとかって持つ角度によって結構入る量違いません? 表面張力もあるしね。試しに大さじに醤油入れて、こんくらい、と思ったとこからもうちょい入れてみてください。わりとまだ入ったりします。これから使う食材も「玉ねぎ1個」とか、重さや体積でなく個体差を無視した「個数」で規定されてたりしますし、塩なんて味を見ながら適量を探るわけです。つまりサラダ油45mlという値に絶対的な意味があるわけではない。
 「神の死」が指摘しているのは絶対的な権威がなくなったということでしょう。血縁なりカネなりイデオロギーなり、そのへんとも置き換えられるようなものがね。「神は死んだ!」なんてのは、私には全ての価値が相対的な世界で絶対的な神をむしろ希求する叫びのようにも聞こえたりもします。
 コンロに火をつける前にホールスパイスを入れます。マスタードシード、シナモンあたりかな。丸のままのスパイスは、食べる時にかじってしまってちょっと嫌な気持ちになったりするけど、特にカルダモンとかね、わーカルダモン噛んだわーってなるね、味もそうやけどちょっと噛み潰せてしまうとこがね、梅干しの種噛み砕いたみたいなね、でも入れないと美味しさが足りなくてもっと嫌な気持ちになるので入れます。局所的な不均衡を気にするより、全体の調和が大切です。
 「人類の進歩と調和」。なかなか大きく出ています。雄々しさがある。あの頃はまだ絶対的な何かを人類は共有できていたのかしらと思わせてくれます。どうなんでしょう。そうでもないのかな。でもまだあの時代には局所的なものだとしても神はいたんじゃないでしょうか。会社とか幸福とか家族とか中流とか、なんかそういうのが。
 スパイスにゆっくり熱を加えている間、玉ねぎ1個をできるだけ均等なみじん切りにしましょう。その方が焦げてしまう欠片が減ります。切ったら鍋に入れて強めの中火で、絶えずに混ぜながら炒めていきます。飴色の一歩手前まで炒めますが、弱火でじっくりなんていう必要はありません。必要なのは焦がさないことで、火は強い方が早く炒まります。時間をかけた方が美味いという思い込みから生まれた神話を信じる必要はありません。
 神が死んだというよりは、神話が崩壊したというほうが個人的にはしっくりきます。つまり何がしかの存在がなくなったのではなく、諸々の物語が機能しなくなったのだという考え方ですね。物語が機能してないのにもう一度オリンピックをやろうが万博をやろうがダメだと思うんですよね。ダメというか、思うような結果につながらないでしょう。
 さぁ火を弱めて、青唐辛子の斜め切り3本分、おろししょうがとおろしニンニクをそれぞれ大さじ1ずつ入れましょう。もちろん目分量で構いませんよ。それからトマトです。大きさに個体差がありますし、含有している水分量も違うので適当でいいのですが、だいたい2個分くらいです。ちなみに私は紙パックのカットトマトを使います。切らなくていいからラクだし、水分量も調節しやすいです。
 そんなラクをしてズルい、という気持ちはどこからくるのでしょう。そういった規範意識、モラルはフィクションでしか植え付けられないと思うんですよね。なぜ嘘をついたらダメなのか(絶対にバレない嘘なら良いのではないか)という問いに答えられずに、人は全ての嘘を見破る閻魔という存在を想像し、舌を抜くという物語を捏造します。神がどこから産み出されたかといえば、人間の頭の中からなわけで、つまりフィクションではあるので、それが死ぬということは、やはり物語が力を失ったということでしょう。
 ハネるので蓋をして(ここで蓋が登場します)しばらく火を入れ、トマトが煮崩れたらごく弱火にして今度はパウダースパイスです。ここは面倒くさがらずに一種ずつ入れてその度によく混ぜましょう。ターメリック、クミン、チリ。最後に塩も入れて同じように混ぜます。そうしてペーストができれば、ほぼカレーは完成しています。折り紙で言えば鶴の羽根と頭を折る前の、菱形の状態。鶴以外にもなる折り紙の基本形ですね。このペーストも、ここから入れる具材によって、何カレーにでもなります。
 こうした何にでもなるけど全ての元であるという根本、そういった万人が共有できる物語が失われたのが大きいと思いますね。ここからカレーは作れても、サバ味噌は作れない。でもカレーを食べたい日もあれば、サバ味噌を食べたい日もある。多様性の担保。それは神とは非常に相性の悪い概念だったんでしょう。
 今日は普通に鶏肉にしますか。じゃあ大きめの一口大に切った鶏もも肉をペーストに絡めるように炒めたら、タマリンドペースト大さじ2、チキンスープと同量のココナッツミルクを、鶏肉が全部沈むくらいの量を入れて一煮立ち、そっからは肉に火が通るまで煮るだけです。パクチーなんかを散らして、バスマティライスに合わせると本格的に見えますね。
 まぁ、そうは言いながらも私はこうして味わっているのが、カレーというもの自体なのか、自作の本格的に見える南インド風カレーという物語なのか分かりません。全く同じ構成物でも文脈によって味わいが変わるように、私たちの五感は信頼に値せず、物語に簡単に影響されます。個々人の中には物語は生きていて、そこから逃げる事はできないのではないでしょうか。その意味では神は死んだわけではなく、細かく分離しただけなのかもしれません。
 万人の心の中に、それぞれの神がいる。それは理想的な状態のようにも聞こえますけど。
 こうして一人でカレーを作って食べてその美味しさを誰と共有するでもなく皿を空にしていく。その孤独に人が耐えられるのであればね。