四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

逸れる

 なんで会社を辞めたのと訊くと、彼は「理由はいっぱいありすぎて…」と困った顔をするが、自分の中にある誠実さを引っ張り出してくるようにして、ゆっくりと説明し始めた。
「まず、人を有能/無能と評価する風習に最後まで慣れることができませんでした。自分の評価がどうこうというわけではありません。人というものをそういった単純かつ客観性のあまりない数直線上におく気質自体が受け入れられないんです」
 私はずいぶんナイーブだなと感じて、その表情を隠さなかったので、恐らく私の思いは彼に伝わっただろう。彼は自分の言葉がまるで伝わっていないという焦りを滲ませつつ、
「順位づけが嫌なわけじゃないんですよ。有能/無能、あるいは頭のいい/悪いでもいいですが、そんなものは人間の『状態』を示す言葉であって、『属性』を示す言葉ではない」
 まだ分からないかな、と嘆息するように彼は続ける。
「ある時に頭の良さを発揮した人が、別の時にはどうしようもなく愚かな選択をする。そういうの、見たことあるはずです」
 彼は私の目をしっかりと見据えてそう言った。「おまえだって恋する時はバカになるだろ。何度も見てきたぞ。嬉々としてバカになってたじゃないか」と直接言葉では言わないが、そういう目をしている。彼の言うとおりだ。でも。
「そうだとして、自分が組織に有用な状態を長く保てる人と、そうでもない人がいて、それが便宜上有能/無能というカテゴリの基準になってるんじゃない?」
「『有用』ねぇ」
 見下げ果てた、とでも言わんばかりの口調。さすがに私も煽られているかのように感じるが、
「その社会的有用性というものを僕はずっと理解できなかったのかもしれない」
 彼は急にしおらしく小声になり、地面をぼんやり眺めて言葉を止めてしまった。
 私は自分は果たして有用性というものを説明できるだろうかと考えていた。おカネという基準を使わずに。自分自身の物差しで。
「僕らのこの会話は、社会的には有用ですか?」
 彼の突然の問いに私は思わず首を振ってしまったが、
「僕は有用である可能性はあると思う。この会話がどこかで記述されて後世になんらかの形で遺ってしまって、それを誰かが読む。史料的価値とかじゃなくて、その誰かの心が動くとしたら」
 ずいぶんロマンチックだなと感じて、その表情を隠さないでいたら、
「僕、ロマンチックなんです。だから会社には居れませんでした」
と言って、笑った。ごく自然な笑顔で。