四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

2021-01-01から1年間の記事一覧

消失

「指切りしよう」とあの時言い出せなかったから、だから僕は彼女には、まさに指一本触れていない。 ベランダに通じるサッシを開けると、5倍ほどの音量になった蝉の声と蒸れた熱気が網戸越しにどっと入ってくる。そのあと台所側の小さい窓も開けるけど、なか…

転送(4)【終】

月面居住区で壁を越えて他国民の区域を訪れること自体は難しいことではない。居住区中央のターミナルを一旦経由して訪問したい区域に入ればいい。月面は建前上国境はないことになっているので、入国審査というものが存在しない。壁はあくまで住民の自治によ…

転送(3)

宙港の帰還用ターミナル、旧打ち上げ棟の最上階。 ここから月の居住区を見下ろすのが好きだ。 かつては地球へのシャトルを打ち上げるためのロケットが今より大がかりで、そのロケットに寄り添うような形の、この建造物が使われていたらしい。20年以上前の…

転送(2)

「たまに生きてるヤツが居るから困る」 確かにカネはいい。しかし、たまにこんな風に、自分で手を下さなければいけない時がある。 当たり所によっては、一人の人間の体のどこにこれだけの血液が入っていたのかと思うほどの血が噴き出す。その血を拭くのも俺…

転送(1)

まただ。 またフランス人だ。 クリスマス週間直前でごった返す、帰還用ターミナル2階。シミズの乗るはずだった便だけが理由も無く「欠航」となっている。モニターは数ヶ国語でMF402便の状況を伝えるが、意味は全て同じ「お前らは今日は地球に帰れない…

祈る

自転車で来てた頃の方が近く感じたな。バスを降りながら、大きな鳥居の脇の奥に見える駐輪場に目をやって、毎年のようにそう思う。学生時代を過ごした古都、その中でも有数の歴史ある神社。私は卒業してこの町を離れてからも、年末の恒例行事としてここを訪…

最終出口

腕が伸びきる手前で衝突が起こったので、会心の拳という感触はない。人差し指と中指の第三関節の突起を正しく当てたはいいが、脳震盪を目論んで顎先を狙ったはずが相手も動くためにそこには命中せず、むしろ顔の中心を捉えてしまった。予測したより少し軟ら…

ふりかえる

花粉症の時は、イヤホンの上からマスクをしていた。ウイルスに脅かされる今は、マスクをしてからイヤホンを着ける。マスクを取り外す場面が、そうはないからだ。 ランダムに選ばれたPizzicato Fiveの『キャッチー』という曲が再生される。チョコとか洋服とか…

駅から宿までは一本道のようだった。過度にイラスト化されて縮尺が不明な、駅前の看板に描かれた観光用地図を見て了解する。宿の人が電話で雑にしか場所を説明しなかった理由がわかった。遠いが、迷いようがないのだ。 鉱泉が湧くその宿までは歩いて1時間強…

やさぐれる

「目の前の業務に集中するといいですよ」 決まり文句なのだろうか。同じ言葉をかけてくるのはもう3人めだ。かかりつけ医、先輩社員、そして今回の産業医。 しかし俺は生まれてこの方一度たりとも目の前のことに集中できたことはないのだった。 今の時代では…

うせもの

ホテルの敷地内にある庭園には宿泊客もしくはレストランなどの利用者しか入れないということになっていたが、ラウンジもカフェも満席だったため、大した罪悪感もなく規約を無視して庭園に侵入する。 敷地の南側を流れる川沿いの急斜面を生かした、大きな高低…

Re:立止る

10年ぶりに会った大学の同級生は、変わってなかった。相変わらず率直で、要らぬ気遣いがなく、何より美味しいものを美味しそうに食べる。僕は彼女の前だといつも油断して、自分のことばかり喋ってしまう。そして次の日に反省する。このルーチンも10年前と変…

『姥捨』考

目の前の草むらで、子どもの手のひらのような平らな葉たちが、不規則に一枚ずつ身を沈めては跳ね戻る。現代音楽を奏でる鍵盤のようにランダムな上下動。頭上に広がる木の枝から時折落ちる雫が葉を叩いているのだ。 見上げると空は木々に完全に覆い尽くされて…

嵌る

同期の集まりがあって、よく見る顔も10年ぶりくらいの顔も揃う10名弱の食事会だったのだけれど、皆それぞれ年相応に後輩や部下がいて、指導や育成について愚痴を言い合っていた。私は指導する側の人間としてその話題に積極的に参加するような器も熱量もない…

Φ

私たちはここでこうして死んでいくの。 完全には同意できない、と僕は言う。彼女は視線を一段階強くして、僕の続く言葉を待つ。少し時間が経つ。根負けしたように、まだ分からないよ、とだけ僕は言って、朝の光を部屋に招き入れようとカーテンを開ける。十月…

立止る

彼が取り出した端末を見て、思わず「おぉ」と小さく声に出してしまう。 それをしっかり聞き漏らさず、彼は前より少し痩せた顔で私に笑いかけながら手にした端末をぶらぶらさせて「そう、まだガラケー」と言う。 10年ぶりに訪れた古都は、当時学生だった私が…

眺める

映画の趣味は全く合いませんでしたよ。 彼女は薄笑いを浮かべながら私に報告する。他人を寄せ付けない冷たさを感じさせながら、ある種の人間を強烈に惹きつけて止まない微笑。その先に到達できないことを予感させながらも、もしかしたら自分だけはより深く彼…

諮る

親指と中指の指先の間を隔てる距離だけに集中して、一種艶めかしいほどなめらかな土を指で挟み、そっと内外の表面をつたうように右手を下方から上方へと動かす。左手は右手の手首をがっちり支え、それ以外の身体の部分も完全に凝固させるようなイメージで、…

居残る

え、泣くんですか、と驚かれて私は逆に訊き返す。泣かないんですか。 私が昨夜、好きなアーティストの新譜(という言葉は一応通じた)を聴いて泣いたという話だった。私としては「泣いた」ことではなく、「新譜で」というところがこのトピックの肝のつもりで…

焦がれる

恋愛脳。呆れた様子を隠さず彼が私を評する。 得意先を接待する食事会を終えて相手方を見送った後、自社の人間がお互いを労ってから解散する段に、彼を捕まえてバーに誘った。お酒の趣味とそれにかけていいと考える金額が合う人はなかなかいないので私は彼を…

隔てる

よく見てるねぇ。 彼は心底嫌そうな表情を敢えてつくりながら、しかし隠せない苦笑いも見せて私に答えた。 コの字形の座席に着いて行われた会議で、彼は私の真向かいに座っていた。会議の後、移動しながらかつて同じ部署にいて親しかった彼に声をかけて、私…

拵える

美しい横顔だ、と私は思う。 隣に座る彼女はずっとカウンターの向こうを凝視している。料理人の動きをつぶさに観察しているのだ。時折、あぁ、という形に口だけ動かして得心していたり、目を見開いて驚いたりしている。 私は邪魔するのは良くないと思い、彼…

蔓延る

セフレってどう思う? と聞かれて、文脈から切り離されたある一単語について私は感情をもったりしません、と正直に答えてみる。いい加減うんざりしていたのだ。それをもう隠すつもりがなくなっていた。 目の前の私たちより5つだかそのくらい上の先輩社員2…

留める

頭が疲弊し尽くしてしまった。少し厄介ごとを抱えてしまい、悪い頭を無理矢理使う日々が一月ほど続き、その期間は慣性のようなものが作用して疲弊の抵抗があっても私の精神は動き続けてくれていたのだが、一定の解決を見た途端に動きは止まった。今日どうや…

異なる

私たちの下半期の会合は通常、上海ガニを挟みながら行われる。 年に2回、私は彼と食事をともにする。私たちはプライベートの外食でたまに奮発することを了承し合える仲であり、そういう人はさほど多くないのでお互いに重宝している。特に秋の会合では私は彼…

憤る

「わたしは人を見た目で判断したことはない」と宣う奴はただのバカですが、「わたしは人を見た目で判断しないよう心がけている」という表明にはもう少し混み入った愚かさがあると思うんですよね。 彼は怒っているようだった。声を荒らげたりはしていない。冷…

経巡る

世界でいちばん殺風景な海辺に行きたい。 なにそれ。運転席の友人は前を見たまま言う。昔読んだ小説にあったの。助手席の私は答える。 そういうんじゃなくてさ、と彼女は前のトレーラーを抜くために滑らかに追い越し車線に移動する。車は少し加速し、私は緊…

逸れる2

この前会社を辞めた彼と、書店で鉢合わせた。 服装や髪型が変わったわけではないのに、どこかカジュアルな雰囲気を漂わせていて、その変容に思わず、おぉ、と口に出してしまう。 変わったでしょ、よく言われます。我が意を得たり、という反応が小憎らしくて…

煮詰まる

私がトマトソースを作っていた頃、私のキッチンのコンロはまだ一口で、鍋も古い琺瑯のものがひとつあるだけだった。 深夜2時。あの頃、その時間帯には冷め切らない熱と何かが始まる予感があって、私は今では感じ取れない可能性を嗅いでいた。とはいえ概念で…

遜る

飲み放題で時間が決まっているからか、料理の出てくるペースが尋常じゃなく速い。部署全体、といっても15人弱が一堂に会し長いテーブルを挟んで座る懇親会。彼はオイル系のパスタらしきものがのった大皿を店員さんから片手で受け取りながら、もう一方の手で…