四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

詩へ

 まず必要なのは手順を理解することだ。
 手順を覚えるのではない。その意味を過不足なく把握することこそが重要となる。
 なぜこの香味野菜を均質な大きさに切り分ける必要があるのか。
 それは次の手順においての熱による変性がなるべく同時期に起こるようにするためであり、口腔内に含まれた時の違和感を最小限にするためであることは、敢えて説明するまでもないだろう。
 一つ一つは、そう難しい理屈ではないのだ。ただ、それを整理された状態で事前に完全に理解しておくこと、これが意外とできていない。能力の不足というよりはおそらくある種の油断と怠慢からくるものだと思う。
 つまりは料理への敬意が足りていない。

 妻が食事の支度をする様子を横に立って見ながら、上記のような主旨の批評を伝えたところ、次の朝に妻は出ていった。行き先も予定も告げずに、ということであればこれは何らかの抗議活動なのだということは流石の私にも想像できる。ので、私は困り果てることとなる。
 私は幸福にも詩人であり、その選ばれた立場故に一切の労働を自らに禁じてきた。凡百のニセ詩人たちはこっそり労働したり、あるいは労働してその感想文を「詩です」と言い張ったり、あまつさえ自作の詩を売ってカネにしてそれでもって詩人と名乗ったりする不届者もいるという。そんな詩にミューズが宿ろうはずがなく、ニセ詩人もそれを知っているはずなのに労働とカネに執着しているのだから救いようがない。
 2日と経たぬうちに深刻な空腹に苛まれた私はしかし、詩人である矜持を忘れたりはしなかった。

 妻の実家で久々の健康的な食事にありつきながら、上記のような状況報告を妻の両親にしたところ、不安そうな顔をするばかりで会話にならない。
 妻は実家にはいなかった。私はそれを予想していたが、義父母は妻しか知り得ない妻の 居場所が気になるらしく、私が落ち着かせようと敢えて冗談などを言ってやっても笑いもしない。失礼なものだが、私がより違和感を覚えたのが彼らが私の経済的困窮、懐具合の寂しさについて容易に予想できるだろうに、何の対策も申し出ようとしないことだった。老夫婦はただただ不景気な困り顔を見合わせるばかりだ。
 最初は自分たちの娘の不在という問題について近視眼的になり過ぎて、問題の重要度、解決への優先度が測れなくなっているのかしらんとも思ったが、1週間滞在しても寸志の一つも渡そうとしない。
 さすがに呆れて「妻の居場所が分かった」と嘘をついて貧乏臭い家を去った。

 上記のような顛末を出版社の担当編集・川谷に話してやり、今度は素直にカネを無心する。
 詩人たる者、詩を理解しない者たちにパトロネージを自ら要求してはいけない。それは自らの詩の価値を貶める行為である。逆に、詩を理解できる知性と教養をもつ相手にはいくらでも要求すべきである。それはその相手に高貴さを発揮する機会を与えるという、利他的な行為であるのだから。
 川谷は白々しく困り顔を演じながら、それなりのまとまった額を手渡して「もう勘弁してください」などといつもと変わらぬセリフを言う。ポケットマネー感を醸し出そうとしているが、どうせ会社の金であろう。
 通算で額を考えると、しがない一編集者に出せる金額ではない。おそらく稿料の前払い的なシステムを使っているのだ。その恩恵に与る作家もしばしばいると聞いたことがある。
 それ以上の用事もなく編集部を立ち去ろうとすると、川谷が見送り際にコソコソと口を指で塞ぐ仕草をして「ほんっと、お願いします。もう限界なんです」とわけのわからぬことを言う。原稿の催促ならもっと素直にやればいいのにと思いつつ、私は曖昧に頷く。

 上記のように催促が上手でなかったとしても、芸術への援助を受けた以上、詩作に没頭するのが詩人のあるべき姿であろう。私は出版社を出てすぐさま酒場に向かった。
 私は詩作にドラッグを用いない。アルコールも例外ではない。ドラッグの中には確かに超言語的体験をもたらしてくれるものがある。しかし詩人は結局のところ言語化という「出口」が決まっているので、必ずしもドラッグ体験が詩人の言葉に光を与えるとは限らない。昔からそれを勘違いしているニセ詩人が絶えないが。
 私が酒場に求めるのは単純な気分転換と、女性だ。言うまでもないことだが、性行為で詩作への霊感を得るなどという愚かな想像をしてはいけない。
 私が女性から得たいのは理不尽、私がどうしても触れることのできない、彼女らがたまに見せる精神の非論理的飛翔だ。

 フユは地味だが頭の良い女性で、上記のような私の要求を十全にとは言わないまでも、かなりの部分理解してくれる。
「でもせんせー、そりゃ恋するしかないんじゃん?」言葉遣いが稚拙なのは商売柄あまり客の男たちに対してハードルを上げたくない故に敢えてそうしているのだろう。愚かしく聞こえても、内容は的確だ。恋愛感情の理不尽さは私が敢えて説明すべくもない。
恋愛における女性のパワフルな跳躍力を知るためには男の私が恋愛をしても意味がない。女性の恋愛感情に振り回される体験が望ましいのだが、それはフユでは難しいだろう。
 私の詩に何かをもたらしてくれる誰か別の女性との出会いを夢見つつ、礼儀として彼女と寝る。

 翌朝妻から連絡があった。大学時代の友人宅にいたと言う。帰ってみたら私が不在で云々。私は上記のような状況で女性の家にいることを伝え、昼には帰ると伝えた。
 話し合いたい、という意味のことを言っていたが、間違いなく成功はしないだろう。
 妻は私に詩作する上で多くのものを与えてくれたし、私の具体的生活は彼女がいないと成り立たない。感謝の念はとても深いのだが、立っている地平が違う。
 私は私を彼女の夫だと考えていない。そう考えることができないのだ。
 フユが心配そうに私と妻のやりとりを見ていた。彼女の後れ毛を微かにきらめかせる窓からの弱すぎる光に、私は愛おしさと破壊衝動を同時に感じることができ、嬉しくなる。その矛盾を失わないよう細心の注意を払いつつ、一片の真実もない愛の言葉を告げて、彼女の部屋を去った。

 川谷が死んだ。自殺だという。どうやら会社のカネを使い込んでいたらしい。とんでもない男だ。また、社内に愛人がいて、その秘密も暴露されてしまったという。
 上記のような妻とのやりとりと並行して、別の出版社の人間からそう連絡がきていた。
 実は愛人の件についてはひょんなことから私も知っていて、彼とその愛人のための詩を作って送ってやったこともある。大した出来ではなかったが、恐縮したのか照れ臭いのか、川谷がずいぶん顔を青ざめさせていたのを覚えている。それ以来、私へのパトロネージにより積極的になった気がするから、かなり嬉しかったのではあろうが。
 やってしまったことは擁護する言葉もないが、悪い奴ではなかった。私は心の中で静かに冥福を祈った。そして何より、大きなパトロンを失ったことについて、深刻に受け止めざるを得なかった。

 妻と対峙する。私はまずは口を挟まずに彼女の話を聞く。
 そして彼女の批判がだいたい一点に集約されることを理解する。
「だってあなたはちっとも詩を書かないじゃないの」
 そうだろうか。
 私はこの数週間も上記のようにずっと詩を書いていたのだが。私の口からこぼれ出た言葉はすべて詩であったはずだ。もっと言えば私の行動、一挙手一投足それ自体が詩としての輝きを帯びていたはずだ。
 書き留めたかどうかは問題ではない。私は一分一秒の油断もなく詩人を全うし続けてきたし、これからもそうするであろう。
 私は詩人だ。つまりそれは他の何者にもなってはいけないということだ。
 小説家であり会社員であることは可能だ。画家であり夫であることもできるだろう。しかし詩人は詩人以外の何でもあってはいけない。
 それを全うするためには、誰にどこにどんな犠牲を払わせようが構わない、その覚悟がある。私は私を社会の中に置かない。私は私を詩以外で評価させない。私は私の人格に何の興味もない。
 そのことで私が生物として立ちゆかなくなるのであれば、死を受け入れるしかない。

 上記のような、今までも何度も彼女に説いてきた私の考えを伝え、私は妻の返事を待つ。
 大変フラットな、凪のような精神で。