四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

世界を変えるための或る一つの特異点をめぐる探索行(1)

一章 大いなる知と眠れる過去とがファヌスを長きにわたる探索行へ導く



 農家の四男なのでファヌスの未来に希望はない。もう少し若い頃から家を出てどこかの職人に弟子入りでもしていれば、それなりの道が開けていたかもしれないが、ファヌスは年の離れた長兄に言われるがままに教会に通い、さわり程度の神学や天文学などを学ぶことで、彼の10代の大半を過ごしてしまった。
 今思えば、兄貴は最初っから俺を坊主にしようとしていたんだな、とファヌスは振り返る。しかし、自分が信じてもいない神を他人に振りかざして一生を過ごすなど、まっぴらごめんだった。
 聖職者という特権を持たない四男には何の価値もなく、18の春にファヌスは追われるように家を出た。とりあえずグラデツの街に出て、博打うちにでもなれればよいほうだろう、そう考えるファヌスの右手には家宝の宝剣が握られている。どさくさに紛れてくすねてきたそれは、ファヌスの先祖が何某という辺境伯だかを行き倒れの危機から救った時に授けられたという代物だ。
 そんな話をファヌスは信じてはいない。おおかたどこかの墓でも暴いてせしめたものだろう。本当に価値があるのかも分からない。これが売れたら売れたでいいし、売れなかったら剣を本来の機能で使って野盗になるのもいい。
 ファヌスの父親は単純かつ愚かな人間で、先祖の言い伝えを少しも疑わず、いつか自分たちが「辺境伯」の子孫とやらに「騎士」として取り立てられる可能性があると考えていた。農閑期には棒切れで息子たちに剣術の稽古を厳しく仕込み、どこから仕入れたのか「騎士の心得」とやらを暗唱させるのだった。
 ファヌスの認識では、彼が知り得る範囲の世界に騎士などもういなかった。戦うべき敵国もなく、拓くべき辺境もなく、ただ馬に乗って剣を振るうだけの人間を養える王や貴族などはいなくなって久しい。あるとすれば修道士が武装して騎士団を名乗っているくらいだ。結局のところは神の後ろ盾があってなんぼ、それがなければ金、というのが今の世の中だとファヌスは理解していた。

 天文学や音楽、数学を学ぶのは単純に楽しかった。ただ聖典や神について学ぶことは、もとより内在している矛盾を糊塗するためだけの無意味な知的遊戯としか感じられなかった。全能の神がいるなら何故罪なき俺の幼馴染みは犯され殺されたのか、何故贖宥の資格をちらつかせて私腹を肥やす聖職者が蔓延るのか。
 家を出る前の晩、さまざまな知識を授けてくれた司祭を訪ねたファヌスは、今までの恩への礼と、聖職者にならなかったことへの詫びを告げた。齢60にならんとする司祭は微妙な表情で、出家する以外にもここで働く方法はあると言ってくれたが、丁重に断った。ファヌスにとって聖堂はもはや忌まわしい場所にすら感じられていた。
 わずかばかりの知識を得たファヌスが理解したのは、結局人は皆大差なく愚かで、ほとんど何もわかっていないということだった。もちろん自分も含めて。
 より知りたいという欲はもちろん芽生えていたが、その方法はなかった。また、全てを知るにはこの世界が広すぎることも把握していたし、愚かな兄達が毎晩酒場で吐く妄言のように「坊主を全員殺して」も、世界が変わらないことも知っていた。
 生まれ育った村を出て西へ。いつしか陽は沈み、ファヌスは野営の準備を始める。グラデツまではまだ半日以上かかる。このあたりは獣人や狼も少ない。簡易な寝床の準備だけで横になった。
 秋の星座が満天に輝いている。その星の動きに一定の法則があることをファヌスは知っている。
 世界の美しさを知れば知るほど、世界の醜さに耐えられなくなる。15の夜に泣きながら夜空を眺めていたのを不意に思い出した。今となっては、何故あの時泣いていたのかも思い出せないのだが。

 グラデツの街に来るのは二度目だった。十になるかならないかの頃、司祭に連れられて丘の上にある大学を訪ねた。1週間ほどの滞在だったが、確か大学内に寝泊まりして、街には下りなかった。行きと帰りに通過しただけだ。
 大学や聖堂のある丘と大きな川との間に挟まれた狭い区画が、川沿いに細長く延び広がって発展した街だ。川の上流、南側の門から街に入ると、川沿いに延びる平坦な道と、丘の方へ向かって緩やかに登る道の分岐に立つことになる。
 あてがあるわけではないファヌスは賑やかな方を選んで川沿いを進み、街の中心に近いところに宿屋を見つけてそこに落ち着いた。足の短い赤顔の亜人が務める受付には「とりあえず1週間」と言ってその分を前金として渡したが、ファヌスの手持ちはそれが全てだった。
 道具屋を5軒ばかり回ってみたが、宝剣は思うような値がつかなかった。薄汚い身なりに足元を見られたのか、本当に価値がないのかはわからない。売るのはやめにして宿に戻ったファヌスは鞘や柄に付いている宝石を取り外した。付いたままでは悪目立ちして腰に下げにくいし、何しろ金を得ないといけない。
 夜、宿の一階にある酒場に降りて、ファヌスは金貨の代わりにその宝石を賭け、木札遊びで少しばかりカモから金を得た。それなりの記憶力さえあれば、少し頭を使うだけで簡単に勝てる。勝ちすぎると目立つので程々に抑えることに苦労したくらいだ。
 次の夜は別の酒場でカモを探すことにした。博打は何より勝ちすぎてはいけない。相手が別でも同じ場所で二晩勝つなどもってのほかだ。
亜人お断り」の札が入口に掲げられたその店は、宿の酒場よりも明かりが暗かった。澱んだ目をした客たちは皆、初見のファヌスを一瞬鋭く一瞥した後、何もなかったように視線を戻す。
 昨晩より慎重に、うまく負けながら最後に少しだけ勝つようにした。バカのふりも忘れなかった。田舎者のふりは、敢えてせずとも見た目から滲み出ていただろう。ファヌスは客たちにそこそこ気に入られた。
 ある客の「また来いよ」という言葉には、もちろん負けた金を取り戻したい気持ちが大半を占めていただろうが、それだけでもなさそうだった。ファヌスの方は二度とこの店を訪れるつもりはなかったが。

 愛想を振り撒きながら店を出て、宿に戻ろうと歩き始めたところで後ろから声をかけられた。
「うまく生きようとするものは最も少ないものを得る」
 振り返ると、聖職者が着るガウンを墨に一年漬けこんだたような、妥協なく黒い一つなぎの服をまとった老人が立っている。服から露出した僅かな部分、顔と骨ばった両手の先だけが月明かりに照らされて奇妙に浮かび上がっていた。
「多くを得たいか」
「いや」
 ファヌスは素直に答える。その欲はファヌスにはない。老人は少し笑ったように見えた。
「では」
 老人がフードを取る。豊かな銀色の髪が露出する。眼光が一層鋭くなったように感じる。この人は実はまだ若いのではないかーー
「世界を変えてみたいか」
 こうしてファヌスの旅は始まった。




 火打ち石に松明、油壺、干しいちじくと干し鰊、ロープやつるはしなどを買い集め、探索行に必要な荷物をまとめるとかなりの量になった。丁寧に荷造りしても、大型の背負袋がはち切れんばかりに膨らんでいる。
 長く見積もって一週間の行程、二人分の荷物を詰めるわけで、この重さも当然だと、ファヌスは試しに背負った荷を下ろしながら溜息をついた。
 だが、荷物持ちは今回の自分の役割のほんの一部に過ぎない。実家から持ち出した剣を弄びながら、狩った猪を捌くのと襲い掛かってくる獣人の皮膚に刃を突き立てるのは、だいぶ訳が違うだろうなどと考えていた。

 ミルティンと名乗った黒衣の男は、昼間に見るとやはり老いていた。歳を尋ねると、お前の10倍近くは生きているよ、と言う。さすがにそれは嘘だろうが、骨にへばりついているような手の甲の皮膚や、井戸の底から届くようなひび割れた声は、その肉体が相当の年月を経ていることを感じさせた。
 彼の話はこうだ。東の山脈の麓に奥深く延びる横穴があり、今は犬の頭をした獣人の寝ぐらになっている。そこはもともと盗掘を専門にしていた盗賊集団のアジトで、何らかの理由で元いた場所を追われたのであろう獣人の群れに突如襲撃され、盗賊たちは全滅した。盗賊の隠していた財宝はまだその洞窟に残っているが、その価値が分からない獣人たちはそのまま放置している。
「そこにある、或る地図が欲しい」
 話の通じる相手ではないとなると、解決策は剣に頼るしかなくなるわけで、ファヌスはつまり傭兵としてミルティンに採用されたわけだった。もう少し多くの人数を雇うべきだというファヌスの当然の提案はにべもなく却下された。
「大いなる秘密に関わる人間を無駄に増やすわけにはいかない」と宣うミルティンの表情から、ファヌスは真意を読み取ることができなかった。

 それでもこの仕事を受けたのには3つほど理由があった。
 まずはしばらく食いつなげるという目先の安心(ミルティンの提示した雇い金と成功報酬は相当なものだった)。そして、いずれにせよ行き詰まっているファヌスの人生が、その洞窟で獣人の餌になるという結末を迎えたとしても、そんなに悪くないじゃないかという、捨て鉢な思い。何より大きな理由は、この仕事は実は自分一人でも事足りるのだと言い放つミルティンが見せた、その傲岸さを裏付ける特異な能力だった。
 彼に会った晩、酒場の前で話していた時のことだ。店から出てきた酔客に因縁をつけられたファヌスは、執拗な絡みの末に刃物を抜かんとすらしていた男が、憑物が落ちたように豹変するのを見た。そしてその直前に、ミルティンが小声で聞き慣れない言葉を唱えているのも見ていた。不自然な愛想の良さを突如身につけた酔客は、不細工な笑みを振りまきミルティンに持ち金を渡して、促されるままに酒場に戻っていった。ミルティンは金袋をファヌスに投げてよこす。「彼の気持ちだ。迷惑料としてもらっておけばいい」
 旅のお供を引き受けるにあたって、彼のこの力があれば安心だと考えた、というわけではない。ファヌスはむしろ、その力自体に強く興味を惹かれたのだった。

「異端学者」
 荷物の準備を終えたファヌスはそれを報告した後、分厚い書物に、薄汚い紙片から何かを書き写している雇い主にそう言った。少し語尾を上げ、聞きようによっては質問ともとれるような抑揚で。
 微かに鼻を鳴らしてファヌスに向き直り、ミルティンはある図像が描かれた紙を見せてきた。
「金星の軌道」
 ファヌスの答えに否定も肯定もせず、黒衣の老人は無言のまま次々に紙を見せてくる。それが指し示すと思われるものをファヌスは一つ一つ答える。中には全く見当もつかない、見たことのない図像もあった。
 やがて試験は終わり、無感情に「それなりの教養はあるのか」と呟いたミルティンは「お前の言う異端とは何だ」とファヌスに問う。
「…“正統な神の教え”から外れたものだろう」
「口にした自分の言葉に虫唾が走るとでも言いたげな表情だが」
 少し身体を震わせ、咳とも笑い声ともつかない音を出しながら、彼は問い掛けを続ける。
「その正統とやらは限られたものであり、異端はそれ以外の全てを指すと。では、単純な確率論から言って、世界の真理が隠されている可能性が高いのはどっちだ」
「世界の真理は隠されているのか」
 何を今さら、というような目つきで銀髪の老人はファヌスを見遣る。ファヌスは薄っぺらい自らのすべてを見透かされているような感覚を得る。
「そうでないなら、お前はなぜ世界を変えたいと願うのだ。全き真理が実現している正当な世界を変える必要はなかろう」

 ファヌスは自らが生涯呪い続けてきた対象について、美しい法則によって成立しているはずが何故か美しさの欠片もない設計物に見えるこの世界について考えていた。沈黙するファヌスをよそに、ミルティンは紙片の書写作業に戻り、しばらくして思いついたように付け加えた。
「学者というよりは」
 自らの思考に集中していて虚をつかれたファヌスは一瞬狼狽えてしまう。
「術師というほうが今は近い。実際ここ数十年は何も学べていないのでな。まぁ、学者に戻るために術師をやっている、というところか」
 自嘲と焦りが滲んでいたかもしれない老人の言葉は、しかしファヌスの耳を素通りし、彼はこう口にした。
「俺もその術を身につけることは可能か」
 自分でも自分の言葉が意外だったが、ミルティンが事もなげに「そうしたいなら、そうすればいい」と事実上の弟子入りを受け入れたことにファヌスはより驚いた。そしてこの日以来、老いた師の気が向いた時に、ファヌスは「異端の」学問を体系立てて教授されることになる。
 時が経ってミルティンの偉大さを嫌というほど思い知らされるにつけ、ファヌスはこの日老人が何故こうもあっさりと受諾したのか、分からなくなるのだった。





 致命傷を負わせてもまるで目覚めないほど深い眠りに落ちている獣人の首を、逐一胴体から切り離していく作業は、精神的にも肉体的にも重労働だった。
 ミルティンの指示通りに二頭いた見張りの片方だけを片付け、もう片方が逃げながら放つ耳障りな甲高い叫び声によって呼び集められた仲間たちがファヌスの前に殺到する頃には、術師の詠唱は完了していた。一瞬の不自然な静寂が訪れた後、獣人たちが一斉に地面に崩れ落ちる音が洞窟内に響きわたる。
 最初のうちは当人や周囲の獣人たちが目覚めないように慎重かつ一息に首を切り落として殺害していたが、どんなに素早く首を斬り落としても獣人は悪臭を伴う不愉快な断末魔(胃から声が出ているのかと訝りたくなる)をあげること、そしてそれぐらいの音量では周囲の獣人どもの眠りは妨げられないことを理解し、ファヌスはできる限り体力を節約するやり方で、このルーチンワークをこなしていった。
 予想外なことに逃走や反撃を企図して寝たふりをしていた奴は一頭もおらず、ファヌスは疲労はしたが危険に晒されることなくこの洞窟の住民全員の殺戮を完了した。ミルティンの詠唱の言葉はまだほとんど解釈できなかったが、この術が獣人の何に働きかけ、どんな効果を誘発したのか、そしてその機序の原理については、おぼろげに理解できた。
 それは喩えるならば、地面に穴を掘ってその穴の口径よりも小さな石を落としたら、掘り下げた先まで石が届く、というような、直観的には自明に感じられる原理だった。しかしそれを本当に理解するためには、石が地面を通過しないこと、空間上に石は停止できないこと、指は接触していない限り石に力を及ぼすことができないこと、などの現象を理論で説明できねばならない。ファヌスはまだ、その学びの入り口に立ったばかりだった。

 全く手伝おうという素振りすら見せず、洞窟の壁にもたれて目を閉じ、うたた寝でもしているように見えたミルティンはしかし、ファヌスが最後の獣人の首を斬り落とした瞬間に無言で奥へと進み始めた。ファヌスは慌てて松明の明かりを掲げてながら彼に続く。
 悪臭に耐えながら獣人たちの生活圏を抜けて進むミルティンの足取りは確信に満ちている。一度来た場所なのかと尋ねると、呆れたように「獣人たちのねぐらの構成が明らかにある方向を忌避し何かを隠蔽しようとしているのに気づかないのか」と答える。
 地熱とそれに蒸された湿気とともにまとわりつく腐肉と硫黄の臭いで頭がいっぱいだと正直に吐露すると、笑いながらも老術師は「観察は重要だ」と短く嗜めた。そしてファヌスの肩に触れて短く何かを唱えた。
「息を止めてみろ」と言われるがままに、ファヌスは意図的に身体への空気吸入を中断し、術の力によって鼻や口からでなくとも呼吸が継続できていることを知る。ミルティンはこの洞窟に入る以前から既にこうして呼吸していたと言う。もっと早くこの術を俺にもかけてほしかったという恨みを遥かに上回る、畏敬の念が湧く。この術師への畏敬と、術自体、その根本にある知自体への畏敬。

 久々の新鮮な空気に知覚の敏感さを取り戻したのか、ファヌスは30メートルほど先の岩陰に隠れている存在に気づく。先ほどの師の教えに早速従い、向こうに気取られぬよう観察すると、哀れなほどに怯えている。そして奇妙なことに、こちらに気づいていない。
 小声でミルティンに状況と違和感を伝える。老人は少し眉をひそめ、
「確かに地熱にしては熱すぎた」と呟く。そして岩陰のほうに真っ直ぐ近づきながらファヌスを前に行くよう促し、獣人の足枷を外してやれと言う。
 足枷どころか下半身も隠れて見えなかったファヌスは、彼にやっと気づいて声をあげる獣人の足元が本当に拘束されているのを見て驚く。足枷を壊すと獣人は喚きながら走り出した。じきに仲間の屍体が積まれた様を見て更なる喚き声をあげることになるのだろうと憐れみながら、ファヌスは術師がなんらかの術の準備を始めているのを見た。
 そういえばさっきは何の術も使わずに足枷を見抜いていたが、どういうカラクリだったのか。術をかけ終えた様子の師に尋ねると、彼は直接問いには答えず、韜晦の全くない、硬質で直線的な口調でこう言った。
「想定以上の危険にお前を晒すことになった。追加料金は私が生きてここを出られたら必ず支払おう」

 ファヌスは言葉の意味が分からず、続きを待った。だがミルティンは荷物をここに一旦おくことなど、これから始まると思われる作戦行動の準備の指示をするだけだった。
 身軽になった二人は獣人が隠れていた場所から奥へと進む。人一人がやっと通れる割れ目のような道は、急な下り坂になり、一歩進むごとに気温が上がるように感じられる。
「さっきの生き残りは」
 ミルティンは静かな口調で話し始める。
「おそらく生贄だ。獣人は宝物の価値がわからなかったのではない。その在処に近づけなかったのだ。それどころか“税金”すらも要求されていたのだろう。」
 その言葉の内容よりも、師の口調や表情よりも、皮膚がひりつくような熱気が、最も雄弁に経験したことのない危険が近づいていることをファヌスに感じさせる。
「お前には申し訳ないが、私はどうしてもあの地図を手に入れないといけない」
 覚悟はもちろんできている。そして何より、この先にあるもの、ミルティンすらも戦慄させる何かを見たい気持ちが熱を割いてファヌスの身体を前へと押し出していた。
「たとえ、“大いなる過去”と直接対峙することになろうとも」
 ミルティンのその言葉は突如として高らかに響きわたった。彼が声を大きくしたのではない。二人が大きな地下空間にたどり着いたのだ。
 その高い天井に反響した声をかき消して、その空間の主が咆哮する。
 赤く巨大なーー
 そこでファヌスの視界は炎で満たされた。客人はまず口から吐き出す熱炎でもてなすという旧くからの伝統を、偉大なる古代の怪物は律儀に踏襲したのだった。





 不思議と呼吸ができる、のはさっきミルティンの術のおかげか、と気づいてファヌスは無意識に閉じていた目を開く。怪物の姿は見えない、どころか視界はほとんど花崗岩の壁で塞がれていた。幅高さともに7メートルほどの壁が忽然と前方に現れ、ファヌスたちを熱炎から守ったようだ。
 振り返ると、彼のすぐ背後に立っていた石壁の創造主は聞き慣れない言葉を口にし始めた。今度は詠唱ではない。その骨張った体躯のどこにそんな力があったのかと驚くほど声を張り上げ、その声はどうやら怪物に向けられていた。
 いくつかの語彙は学び始めている古代語と共通しているようにファヌスには聞こえたが、そのことで示唆される断片的な情報よりも、限りなく懇願に近く響くミルティンの語調によって、彼が巨大な怪物に何らかの取引を提案していることが推察された。つまりは条件付きの命乞いだろう。
 語気と短さだけで拒絶と確信できる返答とともに、ファヌスの鼻先1メートルほどの位置に怪物の前足が振り落とされ、術師が創り出した石の防壁を一瞬にして瓦礫へと変えた。
 1本がファヌスの頭ほどもある爪。数本ある爪は真紅の鱗で覆われた巨大な前足についている。その先へと辿る視線は、金貨が幾枚もへばりついた砂色の腹部、そして長い首を経て、エメラルド色の瞳が10メートル以上の高さからファヌスたちを睥睨する頭部に行き着く。
 幼い頃に好んで読んだ叙事詩に描かれた描写よりも格段に大きい。
「これが、竜か」ファヌスはただ見惚れてしまう。叙事詩の竜は勇敢な騎士に弱点を一突きされて屠られたが、目の前の圧倒的な存在に対しては最早戦うという選択肢が現実的な行為として想像できない。
 偉大な怪物への憧憬に似た感情はファヌスに死を容易く受け入れさせそうになったが、最後に残った一種の職業意識が、少なくとも術師だけは逃がそうという意志を芽生えさせた。既に大きくなっていた師への尊敬の念もそれを後押ししたのかもしれない。ファヌスは大袈裟な雄叫びを上げて剣を掲げながら赤竜に向かって走り、ミルティンに振り返って逃げるよう叫ぶ。
 ファヌスの方を向いた赤竜は口を開いたが、そこから放ったのは熱炎ではなく言葉、おそらく何かを尋ねている言葉だった。

 ミルティンはさっきよりも早い口調でそれに答える。ファヌスは両者の間に立って剣を掲げたまま、言葉の応酬の狭間に立って石化の術でもかけられたかのように固まっていた。
 と、聞いたことのある音の並びが耳に届き、しばらくしてそれが自分が普段使っている言葉だとようやくファヌスは気づく。
「ーーーー宝石はどうした、と訊いている」
 苛立ちが混じったミルティンの声に「宝石?」と訊き返すと、ファヌスが阿呆のように掲げっぱなしの剣についていたはずの宝石に竜が興味をもっているのだと言う。
 柄や鞘についていた宝石を胸当ての内側に隠していた小さい皮の巾着から取り出すと、竜は大声を上げた。好物の菓子を戸棚に見つけた子どものような声。
 ファヌスの手から宝石を素早く攫い、ミルティンは竜に近づいてそれを恭しく両手で捧げる。短いやりとりがあり、黒衣の老人は折り曲げられた太い後脚の足元に近づいていく。竜がその気になれば一瞬で肉塊にされるような距離。
 そこには竜にとっての羽毛布団にあたる、大量の金貨や宝石、装飾品の類が無造作に敷き詰められている。竜の視線を受けながらそこに宝石を置いたミルティンは、さらに財宝の山の奥へ分け入っていく。
 金貨の1枚でも持っていこうものなら老人の細い身体を爪でへし折りそうな、鋭く猜疑に満ちた目に射抜かれ続けながら、ミルティンは一心に何かを探し続けている。
 気が気でないファヌスは、彼が言っていた地図とやらが早く見つかることを祈りながら、手伝おうかと声をかけても聴こえてすらいないほどの、普段の師からは想像もできない鬼気迫る情熱に驚いていた。

 ミルティンの動きが止まる。たっぷり10秒は立ったまま静止していた彼は、やがてゆっくりと背をかがめて足元から掌ほどの大きさの四角く薄い物体を拾い上げた。それを竜に見せて短く言葉を交わす。
 持ち帰ってよい許可を得たのだろうと思うファヌスはしかし、師の手にしたそれが地図には見えなかった。
 足早に棲家を去ろうとする客人たちに竜が声をかける。ミルティンが応じると、竜は首を低く伸ばしてファヌスの目の前に顔を近づけた。
 熱い鼻息が吹きかかり、ファヌスは思わず顔を背ける。竜の言葉は理解できない。ミルティンに顔を向け、通訳を目で乞うと、
「『人間はたいてい、隠されている力に気づかない。そして気づいた時にはもう遅い。』だと。どうやらお説教いただいているぞ」と笑う。直後に真顔になって、
「ご機嫌のうちに早く去るぞ。こいつは自分の餌が全滅したことにまだ気づいていない」
 と言って歩を早める。そこからはファヌスも振り返ることなく、竜の棲家から遠ざかるほど速度を上げて、荷物を置いていた場所まで一気に駆け戻った。
「最後にも竜が何か言ってたが」
 ファヌスは荷物を身につけながら不安そうに師に尋ねる。
「いや、まだ獣人の生贄が今後与えられないことには気づいていないようだ。最後のはーー」と、少し言い淀んで、
「私への言葉だろう。『絨毯を捲る者は、結局絨毯の下敷きになる』と言っていた」
 意味が汲み取れないことをそのまま表情に出したファヌスに対し、しかし師は追加の説明を加えようとはしなかった。ただ、「承知の上だ」と自らに言い聞かせるように小さく呟いただけだった。

「あれは古代種だ」
 洞窟を出て森を歩きながら、竜の巨大さに驚いたと言うファヌスにミルティンはそう教えた。
「ざっと3千年は生きているだろう。おそらくあの洞窟はさらに奥深い下層があり、元々そこに棲んでいた赤竜が、盗賊たちのコレクションの充実に引き寄せられるように這い出てきたのだろう。通常はあのような浅い地下にいるような種ではない」
 普段はこうした教示の後に、関連する知識をさらに授けてくれたりするのだが、帰路の師の口が妙に重くなっていることに、ファヌスは気づいていた。
 往きにも使った渓流沿いの場所で野営の準備を初めていると、僅かな木々の隙から星を眺めていたミルティンが改まった表情でファヌスに声をかけた。
「お前があの時竜に剣を振りかざしたのは、およそ知性のある行為ではないし勇敢ということもできないが」
 そして深々と頭を下げ、
「結果地図が手に入ったことについては礼を言う」
 神妙な調子を崩さずにそう言った。ファヌスは驚きと含羞と満足感がないまぜになって混乱したまま、あいまいに頷くことしかできなかった。
 簡素な食事を終え床に着いた師の前で、念のため剣に手を掛けたまま座るファヌスは、不規則な音を立てて燃え続ける焚火を眺めながら、長い一日を振り返っていた。
 様々なミルティンの術、竜が実在したこと、実家の宝剣の価値、竜が言った言葉の意味、そして地図に見えない地図ーー。
 浅い眠りに落ちかけながら師の感謝の言葉を思い出す。彼が礼を言ったのは、助かったことについて、ではなかった。
 本音なのだろう。これほどまでに力を持つ異端術師が、そこまで執着する地図とは何なのか、ファヌスはそれを尋ねることがまだできそうになかった。尋ねるには自らの知識も経験も不足していることを直観的に理解していた。
 そして同じように、まだ「世界を変える」具体的な方法についても、師に尋ねられずにいた。