四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

遜る

 飲み放題で時間が決まっているからか、料理の出てくるペースが尋常じゃなく速い。部署全体、といっても15人弱が一堂に会し長いテーブルを挟んで座る懇親会。彼はオイル系のパスタらしきものがのった大皿を店員さんから片手で受け取りながら、もう一方の手でラザニアっぽいものがのっていた空いた皿を返却する。そのあと彼はこの大皿が受け持つ範囲である4名に、均等になるよう丁寧にパスタらしきものを小皿に取り分けてくれる。
 私は新入社員や若い女の子がそういう動作をしたら、する必要はない旨を伝えて自ら取るシステムを提案するが(だからこの長テーブルのここ以外の場所では誰も料理を取り分けたりしていない)、彼に関してだけは手際があまりにも良すぎて口を出せない。
 わぁ、ありがとう、と両手を胸の前で合わせてちょっと高めの芝居がかった声で言うと、こちらを見もせずに、いーえーと答える。そして彼は料理ごとに毎度、いただきまーすと小声で言って食べ始める。
 彼は食べることが大好きで、美味しい料理を出すお店もたくさん知っているし、自分でも凝った料理をしたりする人だが、こういう“若々しい”お店でも決して料理に文句をつけたりしない。連続でパスタかボリューミーだぜ、などと独り言を言いながら楽しそうに食べる。
 本当に美味しいものを食べた時の彼の表情がとてつもない幸福感に溢れている(なので彼は飲食店の人に好かれる)のを知っている私は、それと今の彼の表情との落差は読み取ってしまう。でも、美味しくないものを美味しくないとわざわざ言うことで自分の舌を自慢するような下劣さをもたない彼を私は好ましく感じる。
 次にテーブルに来た豚のソテーはナイフで器用に切り分けた上で配ってくれる。私はまた、まぁ、親切!などと今度は両手の平を顔の左右で開いて、バカみたく言ってみる。
 一瞬間を置いて彼は、ごく低く、小さい声で言った。
「本当のことを言っていいですか」
 私はどんな深刻な告白が始まろうとしているんだろうと身を硬くするが、
「料理を取り分けるのは親切からじゃなく、いやしさからなんです」
と、彼は真剣に「取り分け」について語り始めた。
「僕は何より自分のテリトリーをはっきりさせたいんです。どこまでが僕の食べてよいものなのか、しっかりと線引きしたい。それが曖昧だと遠慮して食べづらいし、料理の種類によっては食いはぐれてしまうこともある。だから『これは俺のぶん』と明確にするために最初に料理を取り分けるんです」
 ね、いやしいでしょ、と言うので、いやしいとは思わないけど珍しいね、と言う。
「そうでしょうか。自分の分担量がわからないと大皿料理を食べにくいという人は、声をあげないだけでけっこういる気もするんですが。でも、僕は男でよかった。女性だったら、取り分けさせてくれないでしょ」
 そんなことはない。どうしても取り分けたい、という人を止めたりはしないよ、と言いながら、実は取り分けたいのに言い出せない女の子の存在を少し想像する。
 私は綺麗に切り分けて横に適量のソースと付け合わせが添えられた自分の分の豚のソテーを見て、食へのこだわりって、悪い言い方をすれば「いやしい」になっちゃうのかもね、と言う。
「この料理のアマウント・マネジメント(と僕は心の中で名付けてるんですが)のいやしさはもう一つあって、それが『善い行為』だとされていることなんです」
 僕はいやしさを起源とする行為で皆を欺いている。親切な人間だと。あるいは取り分けは若い人や女性がやるべきという旧来の悪習を打破しようとしている人だと。そんなことないのに。そして卑劣にも誤解から得た評判を否定しもしない。だから僕は、二重の意味でいやしいんです。
 とまくしたてられて、私はさすがに呆れてしまった。いわゆる、他者に「そんなことないよ」と否定してもらうための、ポーズとしての自己批判ではなく、彼は心からそう考えているようなのだ。その証拠に彼は長年の罪を告解した信者のような晴れ晴れとした表情をしている。
 私は半分笑いながら、取り分け以外の局面でもあなたはこの部署の皆から親切な人間だと思われてますよ、と言うが、彼はあくまで真剣な口調で反論する。
「周りに親切にはしようと心がけてはいます。でもそれは周りから親切にされたいからであって、打算的なライフハックにすぎません」
 ああ言えばこう言う。バカバカしくなるよりも、やりとりの楽しさのほうがまさってしまい、私は調子に乗って、じゃあみんなのことを好きで親切にしてくれてたわけじゃなかったんだー、とわざと語尾を延ばして鼻にかけた声で拗ねたように言ってみる。
 彼はどこまでも真剣な姿勢を崩さず、何かを思い出そうとするように目をつぶって、
「いや、それが。めちゃくちゃ好きなんです」
と絞り出すように言う。そして彼は一人ずつ、うちの部署の全ての部員について彼が好きだと感じるところを挙げていった。彼の観察眼と繊細な感受性、そして公平な視点が伝わってくる話だった。
 でもこれって、表出させてはいけない感情だと思っています。こんなふうに一方的に好かれるのは皆からすると気持ちよいものではないと思うし、そもそも好きだから親切にするというのも根本的には不公平なやり方ですし。
 善良な人間とは、かくも生きづらいものなのか。私は悪いけど大笑いしてしまった。