四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

戒める

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 ここは間違いない店なんだけどな、と私は定番料理のイワシのマリネを美味しさを確認するように味わいながら、カウンター席の隣に座る彼女の浮かない表情を窺い見る。
私は一応彼女の指導社員ということになっていて、今日彼女は仕事上の些細なミスで少し過剰に傷ついていた様子だったので、食事に誘ってみたのだ。けしてスマートとはいえない誘い方ではあったが。
「美味しいですね」
 私の視線を感じて彼女はそう言った。精一杯の元気を絞り出すように。嘘やお世辞を言っているわけではなさそうで、心を閉ざしているという感じでもない。ただ、前向きな気持ちを失っている。
 本来私は食事のときに仕事の話をするのが嫌いだ。若い頃は許せないほどだった。今はそこまでは感じないが、美味しいものを食べながら散文的で無粋な話題を扱う気持ちが理解できない。仕事をプライベートに持ち込むなということではなく、美味しい食事に集中していない人を見るのが腹立たしいのだ。
 というわけで、私は仕事の件を直接もちだして彼女を慰めることもなく、東京一と私が決めているスペインバルの料理にしっかり集中しつつ、他愛ない話題で会話をつないでいた。
 彼女はもちろん私が食事に誘った意図を理解していて、なんとか明るく振る舞おうとして、その度に失敗していた。私が自分の傲慢さと無神経さをさすがに反省し始めた時、
「幼い頃、親に『今泣いたカラスがもう笑った』と揶揄われるのが本当に嫌で」
と彼女はカウンター越しのキッチンを真っ直ぐ見つめながら、少し低い声でそう言った。
「自分が機嫌が悪かったりした後に、おもちゃやお菓子、テレビなんかで笑ったりすると、決まってそう言われました。私はそれが、自分の救いようのない卑怯さを指摘されているように感じて、とても辛かった。ある程度の時間、感情には一貫性がないといけない、そう考える癖がつきました」
 かわいそうに。私は素直にそう思ってそう言った。
 親御さんはもちろん彼女を責めるつもりで言っていたわけではない。むしろ笑顔になった彼女を可愛いと感じ、その喜びからそういう言葉を一種の定番的な冗談として口にしていただけだろう。しかしそれは彼女のある部分をこんなにも大きく損なってしまっていた。
「ここのお店、本当に美味しいです。先輩と一緒に食べられるのも嬉しい。でも私は今、笑ったりしちゃいけないのに、そういう感情のはずなのに、そう思ってしまうんです」
 ごめんなさい、と彼女はそこで私の方を向いて謝った。
 謝ることではないと伝え、でも、それだといろいろ大変だね、と本心から同情する。
「なので私は気分転換が下手くそなんです。それは諦めています。でも」
 だからこそ同じ感情を長く持ち続けることも得意なんです、と彼女は言って、
「私、小学校の時からずっと同じ人が好きなんですよ」
 私が目を丸くすると、その人は漫画のキャラクターなんだという。今でも彼の誕生日には祭壇を作って誕生会をするのだと。
 さらに目を丸くして絶句する私を見て、彼女はその夜初めて、心から笑ってくれた。