四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

転送(3)

 宙港の帰還用ターミナル、旧打ち上げ棟の最上階。
 ここから月の居住区を見下ろすのが好きだ。
 かつては地球へのシャトルを打ち上げるためのロケットが今より大がかりで、そのロケットに寄り添うような形の、この建造物が使われていたらしい。20年以上前のことというから、まだ生まれてもいないボクは、当然その派手そうな打ち上げの光景を見たことはない。
 でも、そんな過去とは関係なく、ここからの眺めは素晴らしい。
 この宙港を中心として円形に広がる居住区の端まで、ちょうどギリギリ見渡せるくらいの高さ。その円形は、内部を中心から周縁へと延びる無数の壁で仕切られている。壁は直線ではなく、ふくらみ凹み後戻りし、いびつなラインを描いて、しかし途切れることはなく縁まで進む。その壁で隔てられた、扇型というにはあまりに歪んだ図形のひとつひとつに、各国民が分かれ住んでいる。
 設計当初は壁などなく、地球上では分かれて住んでいた各国民がそれぞれ混ざり合って住む、そんな居住区が想定されていたらしい。
 そんな醜い虚飾に満ちた時代に生まれなくて本当に良かった、と思う。
 この壁が好きだ。
 棟の最上階、全面を窓で囲まれた直径10mくらいの360°展望室。今は物好きが訪れるだけの、さびれたその部屋の真ん中に立つと、ボクの足から生えたものが根のように曲がりくねって壁となって延びていくような、そんな錯覚を覚えるのだ。世界の真ん中に居ながら、世界のどことも関わりのない自分。

 十数年前、非母国語言語の習得を阻害する要因となる遺伝子が発見された。画期的な発見で、多言語習得が容易になるような新薬の開発などを期待する報道が、当初は満ち溢れた。
 でも、しばらくして生まれたのは、「遺伝子が阻害しているのに、そもそも何故母国語以外の言語を学ばなければいけないのか」という当然の論調だった。
 曰く、異文化間コミュニケーションの過度な神聖視は、そういう「物語」に取り憑かれていただけだ。月居住区を「理想のグローバル都市」として設計したのは愚行だった。確かに、異文化と交流したい/交流する能力のある人間というのは、いつの時代にも一定数存在し、歴史上その種の人間が人類の進歩に有益な行動をしたこともあったと聞く。しかし、それはあくまで一部の、特殊な遺伝子をもった者達の行動であって万人が倣うべきものではないし、停滞と微衰が基調にある現代において、そもそも異文化との交流に大した意味はない。
 そんな論旨だ。
 阻害遺伝子の発見は、異文化と交流したくない人間に(母国語以外の言語を学びたくなどない人間に)とって、一種の免罪符のような働きをしたみたいで、「もともと異文化交流とか言ってる奴はそんなに多くなかった。そいつらの声がやたら大きかっただけ」っていう声も、もはや負け惜しみ的には響かなくなっている。

 ボクは想像する。
 すぐ足下、宙港にほど近い中層マンション。最上階から2階下の1室の灯が点く。メキシコ人が住む区画。午後6時を回って帰宅した彼は、それなりの収入を担保してくれる会社の単身赴任者だろう。家族は治安を心配し、宙港に近いことを第一条件に物件を探していた。彼もその当時は同意していた。仕事場も近い。しかし今は違う。帰宅後に車を15分ほど周縁方向に走らせた場所にある繁華街に通うのが日課になった今は、家族にバレずにマンションを売って、もっと家賃が安く、享楽と安寧を与えてくれる中央広場(ソカロ)に近いアパートに移り住むことを本気で検討している。ほら、すぐ灯が消えた。もう夜の街へとお出ましだ。短い時間しか家にいなかったのだから、スーツのまま着替えていない。今日は商売女じゃない。レストランでの食事から始めてやらないと納得しない程度のプライドはある女とだ。
 ボクは想像する。
 宙港と居住区の端との、ちょうど真ん中くらいの位置。不自然な広さの空き地がある。再開発じゃない。この空地を見つけてから、1年以上は経つ。空き地を覆う緑も、放置されたが故に生い茂った雑草ではなく、綺麗に手入れされた芝に見える。金持ちの道楽? 地球恋しさに始めた牧場? いや、それではつまらない。ここは墓地だ。月面開発の過程では、大掛かりな土地改変実験がいくつもあった。その一つにきっと、大量の犠牲者を出したクレーター外周山脈の崩落実験があったのだ。人工の斜面崩落は愚かな人間の想像をはるかに超える規模とスピードで発生、100名近い関係者が生き埋めになった。責任の押し付け合い、遺族補償での駆け引き、内部機関の緩やかな原因検証、公共事業としての共同墓地の発注。いくつもの世俗的な位相を経て事故は風化し、今はこの墓地だけが残っているのだろう。この場所を手入れする事だけが生きる目的となった哀れな遺族の一人以外には、ほぼ忘れ去られた墓地。
 ボクは想像する。
 居住区のどちらかというと内側よりを周回する環状2号道路。かつてあったという渋滞は、今ではもう起こらない。居住区自体の人口は減る一方だし、そもそも区分けされた居住区をまたいで走るこの道を使う理由をもつ人は、ほとんど存在しない。自分と違う慣習に生き、違う言葉を操る人間と会ってまで為すべき事など、まずないからだ。旧式の遮音壁で囲まれたその道路を走る赤い乗用車。常軌を逸したそのスピードからみると、どうやら手動で運転しているらしい。危ういライン取りでカーブをすり抜け、直線が長く続く所では目いっぱいスピードを上げて。環状道路をあっという間に一周し、しかしまだ止まろうとはしない。どこか目的地があるわけじゃないのだ。車に乗り、それを走らせる事、それ自体が彼の目的なんだろう。ボクはその運転の純粋性に崇高さを感じ、そのドライバーと恐らくは同じ事を祈る。「激しく速やかな死をその身に賜らんことを」
 単なる想像だ。というより妄想。
 それがボクはずっと止められない。この世界にいるたくさんの人間が、自分と同じように個人的な経験をもっていて、その連続した経験を物語化して記憶して、それを「自分」と呼んでいる。
 自分と同じような「自分」が溢れている世界。
 途方もなく気持ち悪く、そしてその途方もなさにしかし、大きな安らぎを感じるのだ。
 逆に。ボクは不思議に思う。
 どうしてみんな世界が一つであることに満足できているのだろう。

 自分が生まれた瞬間の状況や、最初に感じた痛み、初めて言葉をしゃべった時、そんなものは全く彼の記憶にはない。
 まず、ひどくがっかりした。それが最初の記憶だ。
 何に対する深い落胆なのかと問われても、彼はうまく答えられないが、自分の意識のすべてを失望が埋め尽くしていたのは覚えている。彼にとって、自我と失意はほぼ同義語だった。
 他の全ての子どもたちと同じように、母体の中にあるうちに先天性の障害検査をクリアし、問題のない健康体として生まれ、親権者適合試験に合格した両親によって物質的な不自由はさほどない状態で育てられてきた。もちろん愛情も十分注がれたと言っていい。しかし、この世界そのものに失意を抱いているものにとっては、そのような待遇はもちろん救いにならなかった。
 世界に希望を抱いていない子供が通常そうであるように、彼も大人受けのよい子供であるように振る舞った。失意の原因を自分自身に求めることで諦めを自らに強いようとしていた。
 そして彼は第二次性徴期に差し掛かった頃、「しょうせつ」に出会った。

 アクリルの窓から光が差し込み始める。
 地球のいわゆる夕陽に含まれるある種の波長の光が、人間の精神に及ぼす影響はよく知られているが、この人工光もそれを再現している。
 その「恩恵」を最大限に味わうため、ボクは特殊な呼吸を始める。
 最初は薬に頼らないとできなかった。師に教わった一番最初なんかは、場所も体調も万全に調え、それでも音楽の力を借りてやっと、という感じだった。あれから3年くらい。ボクは呼吸だけで「取り戻せる」ようになった。
 「取り戻す」というのは師の言葉で、たぶん原初的に人間が持っていた感受性を取り戻す、みたいな意味なんだろうけど、ボクにとってこれはちょっとした「遠足」という気分に近い。
 もう音楽もいらない。ちょっと苦しいけど、ちょっとしたコツを身につければ、呼吸だけでたどり着ける。
 大理石を模した床材の模様のランダムさ、その奥にある規則的なリズムが見え出すと、そのリズムに呼応するように居住区を隔てる曲がりくねった壁が輪郭を主張し始める。
 成功だ。何かが頭の中で切り替わり、目に入るすべてのものが看過できない崇高さをもっていることに気づかされる。「既知」というラベルを貼って詳細な観測をやめていたもの。「未知」というラベルを貼るだけで棚上げしていたもの。それぞれと「生」で触れ合いなおすことがボクの存在をとてつもない力で揺り動かす。
 そして「夕陽」。特定の波長が視神経から脳を刺激し、過去の記憶が場面ごとのスナップ写真のように時系列を無視して同時によみがえる。その写真の解像度と彩度はどんどん上がっていき、脳が無酸素運動をしているかのような疲弊を感じながら、ボクはその写真を順序良く並べ替えようと無意識に試みてしまう。
 直線的な時間軸の上に並べるというより、因果関係で結びつけてゆく。それは樹形図のように連なっていき、ボクがボクという物語を紡いでいたことを否応なく認めさせられる。
 ボクの足から延びていた居住区を区切る壁はしなやかな曲線となってそれぞれが鞭のようにしなり始め、隔てられていた各居住区は鞭の上下動に翻弄されるようにバラバラに浮遊し、やがて層状に重なっていく。その層のひとつひとつにもなぜかボクがいて同じように足から延びる鞭で空間を切り裂いてさらに細かな層にしていく。
 果てしないほど厚い層の重なりをボクは潜っていく。めまぐるしく色彩と匂いが変化して重なり合った世界をボクはどんどん突き抜け墜ちてゆく。
 息ができず、肉体的な限界が「遠足」の終わりを告げる。

 この世界は絶対に交わることのないそれぞれ別個の世界から成る多層構造を成していて、自分=世界は、その一つの層に過ぎない、と考えることは彼を楽にした。
 しょうせつに触れ、その「層」の厚さを手触りのある実感として獲得できることで、澱んでいた自分の魂が今までになく軽快なものになるのを感じられたのだ。
 しかし同時に、層の一部に甘んじる限り、完全な自由はないことも理解していた。
 心は軽くなったが、満足はできなかった。
 結局のところ、一人には一つの人生しか与えられていない。しょうせつに触れることで、今度はその当然の事実が彼の心を苛むようになった。

 通常の感覚を取り戻すための細かな作法を順序良く行って、ボクはまた元いた場所に「戻って」きた。
 今日もそんなに深くまでは潜れなかった。潜れば潜るほど、ボクの想像力は刺激され、妄想が捗るようになるんだけれど、最近はそれも頭打ちだ。別の方法が必要なんだと思う。
 ボクは端末を起動して、今はあまり使われていないあるローカルなネットワークから一つの場所にアクセスする。
 そこは「古書街」と呼ばれていて、非合法なネットワーク上の空間だ。
 扱われているのは有史以来人間が書き紡いできたしょうせつ。物語性のある文字列をネットワーク上でやりとりすると当局に簡単に察知されるので、古書街で行われるのはあくまで取引のみ、実際のテキストは出力された物体として手渡しで納品される。
 地下でこうしたしょうせつの取引があることは、実際ある程度は知られてはいる。当局も黙認している部分もあるのだと思う。ただ、今回アクセスした古書街は、今までのところとは別物だ。
 「図書館」の本を扱っているのだ。
 つまり、今生きている(或いは最近まで生きていた)人間から人工知能によって紡ぎだされたしょうせつを、どんな手段でかわからないが入手し、商品としている。
 そのしょうせつは、今までボクが読んできたたくさんのしょうせつとは、きっと別物に違いない。面白いしょうせつはたくさんあったけれど、どうしても靴の上から足を掻くような感覚は拭えなかった。何しろ一番新しくて50年前くらいの人が書いたものだったし、旧人類の物語脳にはしょうせつ好きのボクでさえ辟易するところがあった。
 ボクは想像する。
 でも、それには限界がある。
 だから、ボクは今日、死体を探しに行く。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆(つづく)