四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

転送(4)【終】

 月面居住区で壁を越えて他国民の区域を訪れること自体は難しいことではない。居住区中央のターミナルを一旦経由して訪問したい区域に入ればいい。月面は建前上国境はないことになっているので、入国審査というものが存在しない。壁はあくまで住民の自治によって便宜上設けられたもの、とされている。
 異国の人間は、ただ住民からの嫌悪と疑念の目に晒されるというだけだ。
 この東アジアの大国から分離独立した情報立国は、ボクは何度も訪れているし、そもそも他人からどんな目を向けられようが気にならない。直接危害を加えてくるわけではないし、もしそうだったら然るべき反撃を加えればいい。
 端末をローラーボードにセットして、誘引モードを起動する。古書街の「出店(でみせ)」、つまり出力されたしょうせつを売る実店舗は、日ごとに場所を変えるため、端末に届いた「招待状」がないとたどり着くことができない。招待状が示す位置情報も逐次追加と消去を繰り返していて、端末上にあるのは次の瞬間どの方角に進むべきかという情報のみとなっている。つまりボクにはこの滑走がいつまで続くのかはわからない。
 ターミナル近くの高層ビル街を抜けると、木造の汚らしい平屋が建ち並ぶ区域に出る。大通り、といっても幅5mほどの道に面して建つ家々の背後にはドブのような水路が流れている。鶏の皮が焼ける香ばしい匂いと、乾物のアンモニア臭が混ざり合う。
 ここには人間は住んでいない。人であることを諦めて原始的な生活にこだわった動物たちが前世紀中葉の頃のような生活をしている。この種の区域はどの国にもあるらしいけれど、この国のそれはおそらく世界で最も早くつくられ、規模も最も大きいという。
 生物学的には人間なので、もちろんやろうと思えば言葉は通じるけれど、試みたことはない。そもそも人間とだって話をするのはまだるっこしいのに、端末を捨てて人間を辞めた動物たちとコミュニケーションするなんて、途方もないことに思える。
 でも、この動物たちですらも、しょうせつになってしまえばきっと面白いに違いない。人間も動物も、どんどんしょうせつになってしまえばいいのに、ボクは心からそう思う。
 一度この区域を出て、追跡予防のためなのか何かの審査のための時間稼ぎなのか、明らかな遠回りをしてたどり着いたのは、建物裏のドブ川に浮かぶ一艘のボートだった。
 軽油の匂いが強く漂うボートに乗った瞬間、船尾のエンジンの横に腰掛ける老人が無言で舟を発進させる。5人も乗ればいっぱいになる小さなボートには、ボクと老人しか乗っていない。こんなパターンは初めてだけれど、いずれにせよ成り行きに任せるしかないボクは、特に老人に話しかけたりもせず、腰を下ろして前方からの風に髪なびかせる。悪臭とまでは言えないが十分に不快な臭いを味わいつつ、10分ほど舟は進み、ドブ川は広い沼地に接続して、その沼の中心で老人はエンジンを切って鉄製のアンカーを水中にどぶりと落とした。
「対価」
 最低限の単語を老人が告げ、ボクは予め手に入れて置いた希少金属を契約どおりに渡す。老人はそれを嫌がらせのように時間をかけて確認し、何も言わずに見慣れない形の紙の束を放り渡す。動物の皮製の素材で挟まれる形で「本」の形をとっていて、今まで見たアンティークもののしょうせつ(前世紀に実際に流通していたような)よりも豪華で、何より真新しい。
「本当は無い物」
 複製が許されないということを念押ししているのだろうか。ボクは手触りのよい紙をぱらぱらとめくってざっと目を通し、それがしょうせつらしいことを確かめる。確認したことを老人に告げようとすると、彼の言葉は続いていた。
「たましい」
 舟は再び動き出し、それきり老人は黙り込む。舟は手近な陸地に着岸し、ボクは再びローラーボードに乗る。最短距離でターミナルへ向かう道を設定し、最高速度で滑走しながら、ボクは最後に老人が口にした聞き慣れない言葉を思い出していた。

 「図書館」のしょうせつ生成システムはさほど難しいプログラムではない上、強力なセキュリティーで保護されているわけでもなく、彼にとってそれを入手するのは容易かった。「司書」役の音声機能など、無駄なものを省けば、プログラムは端末上でも十分走らせることのできるものだ。
 こうして他人が図書館で作成したしょうせつを得るよりも前に、彼はその作成プログラムを使って、試しに何度か自分でしょうせつを作ってみていた。テキストベースで質問への返答を入力するだけなので、効率よく答えれば1時間もかからないで作成は完了する。しかし、出力されたものに彼を満足させる出来のものは一つもなかった。
 自分の中だけから生み出されるものには限界がある。そう彼は考え、自分ではない別の人間のしょうせつを求めるようになったのだ。
 本来、プログラムは作成依頼者の心理的葛藤や懊悩を掬い取る作品を出力するように出来ている。彼が盗んだプログラムに問題があったわけではない。彼はプログラムの質問に、正しく答えようとしなかった。彼自身にも何故だかわからないが、正直に返答することが躊躇われたのだ。何か大切なものを失ってしまうような気がして。

 そのしょうせつは本としての豪華な外見に全く引けを取らない面白さだった。
 今までボクが読んできたものと違い、今いるこの世界と地続きで繋がっている場所で語られてるように感じた。ジャンルとしてはいわゆるSFとカテゴライズされていたものに属するのだろう、氷河期が訪れ人類が衰退し個体数を激減させた設定で、遠い未来の話と言えるけれど、ボクは舞台設定とは関係なく、世界への視点のありように、今まで味わえなかった強い共感を覚えたのだ。
 特に主人公が気づかないうちに抱え続けているもの、ざっくりというと罪悪感ということになるのだろうけれど、それが様々な表象として作中に描き出され、それが心に響き続ける。
 ボクは夜を徹して読み耽った。
 読み終えて2、3日、呆けたような時を過ごした後、再読した。
 誰かのためだけに作成された文章が、ボクのために、ボクによって「今」読まれるために書かれたように感じる。
 ボクは書き手(という言い方は正しくないかもしれないが)である人物に興味をもった。いったいどんな人物が依頼したらこんなしょうせつが出来るのだろう。できることなら会ってみたい。
 人間に会ってみたいと思うなんて、自分でもヘンだなと思いながら、ボクは据え置き型の大型端末を起動する。

 依頼主の返答からしょうせつを生み出したプログラムを少し改変すれば、しょうせつから逆にたどって、作成時の質問と返答を推定することは理論上は可能だ。ただ、そもそも文字列スキャンができない(それをすることで当局が感知するリスクが大幅に増大する)しょうせつを手入力する手間がある上に、プログラムの改変も自分一人の手作業となるので(クラウド上の各種サービスもリスクを考えると使えない)、何しろ時間がかかる作業となる。
 しかし彼はしょうせつの書き手特定にこだわった。
 彼自身は気づいていないが、自分(の返答)がプログラムを通じて作り出せなかった傑作しょうせつを作り出す人間に嫉妬を覚えていたのだと思われる。正直に返答を入力しないで作り出せるわけがないのだが。
 もし正直に返答を入力したら、唯一無二のしょうせつが出来あがっていたかもしれない。しかしそれは「唯一」としてしか存在し得ない。二つは作れない。そのことが彼にとっては苦痛だったのかもしれない。
 誰にとっても人生はひとつしか与えられないものだというのに。

 アマミヤ氏はボクが予想していた人物像とはかけ離れていたけれど、予想以上に面白い人物だった。でも、会いたいか、というとそうでもない。たぶん会ってもまるで話が合わない。
 ボクが一番興味をもったのは彼の仕事、人間の転送装置についてだ。
 彼の返答を読んでいると、物質転送は実際は別の場所への物質の複製であり、人間を転送する場合は転送元の人間を殺害する必要があるという。その死体処理、あるいは実際の殺害を手掛けているのがアマミヤ氏らしい。その仕事自体はどうでもいいが、ボクは転送装置にとても惹かれた。
 ボクは2人になれるかもしれない。
 2人になって何をするか。完全犯罪アリバイ作り。もちろんそんなんじゃない。
 「自分」はもう一人に任せ、何者でもなくなることができる。
 「ボク」ではない、もう一つの人生をつくることができる。
 もう自分が自分でしか無い事に絶望しなくていい。

 彼は早速行動を開始した。転送用の資金集めと、審査をくぐり抜けるためのいくつかの情報操作。人生で初めてと言っていいくらい希望に満ちた気持ちで、彼はほとんど浮かれながら作業を遂行した。これほど長い期間しょうせつを読まなかったのも人生で初めてだっただろう。
 地球への転送手続きは無事終わり、スキャン過程が進むごとに彼は高揚していった。計画の最後の部分はかなり荒削りで、というのも転送される人間は必ず丸腰にならざるを得ないからだが、水死体のふりをして銃を奪い死体処理役の人間を殺す、という雑なものだった。
 しかしその計画は成功裏に終わり、アマミヤは自身のしょうせつを読み終えた次の日に彼に見事に撃ち殺された。

 死体処理人は死に際に意外な言葉を遺した。
「良かった。しょうせつのとおりだ」
 何者にもならなくなるために立てた計画だが、施設を出るためにはまず死体処理人になり替わらないといけない。ボクは処理人のIDを奪って、彼がアマミヤその人だったことに少しの驚きと、それよりも大きい納得感を覚える。
 彼は罪悪感という物語にすみつくことができたのかもしれない。
 そして最期に、か細いがはっきりと聞こえる言葉で、
「さすが『俺の』しょうせつだ」
と口にした。
 ボクは咄嗟に彼の頭を蹴りつけてしまった。何に腹が立ったのかわからないが、たぶん自分も読んだしょうせつを、こんな仕事をしている屑のような人間に「自分のもの」呼ばわりされたのが気に障ったのだと思う。
 さらにボクを苛立たせたのは、手ごたえのなさだ。
 何者でもなくなった感覚がない。まるでない。
 そんな感覚はもちろん今まで味わったことがないわけで、どういう感覚なのかもわからないのだけれど、期待が裏切られているような焦燥感がどうしようもなく体中を走る。
 アマミヤとして施設の外に無事出ることができ、帰途に就く。それは予定通りだが、自分の中にある気持ちが予定と違っている。
 地球に着いているのであろう、もう一人の自分こそが「何者でもない人間」に慣れたのだろうか。だとしたら、何度転送を試みたとしても、ここにいるボクはボクから離れられないのか。
 社会制度上のボクは、今日地球に転送されたことになっている。だから向こうのボクがボクを背負うべきだと思っていた。でも、ボクはボクの肉体にこびりついたままだ。便宜上、故アマミヤ氏のIDを使っているからといって、アマミヤになったわけではない。
 ボクは失敗したのだろうか。

 その夜から、彼は不思議な習慣を始めた。架空の物語を書き始めたのだ。
 しょうせつと呼ぶには断片的すぎるものだったが、彼のことを一番理解できるはずの私にも全く意味の解らない行動だ。
 彼と分かれてから再会するまでの4か月の間、彼はずっと書き続けていたようだ。もちろんそのことは再会後に知ったわけだが。折しも疫病の発生で地球内での移動も厳しく制限される中、月に戻るのが手間取ってしまった私が再会した彼は、私とはまるで違う人物になっていたように見えた。
 言葉も交わさなかったので正確なことは言えないが、目の前にある彼の端末に残された私の読んだことのないテキストデータは、相当な量になっている。
 やむを得なかったとはいえ、時間を空けすぎたのは良くなかった。完全に違う人格になってしまうと、私の殺害行為に正当性が失われてしまう。
 ただ、彼が「私と違う人物」のように見えることは、私の精神衛生上は良かったのかもしれない。自分と同じ顔の死体を見下ろしながら、私はそう思う。
 いずれにせよ、自分は2人要らない。 自分が2人居たら、もう一人は必ずオリジナルを殺しに来る。そういうふうにできているのだ。
 これはたましいの問題だ。
 一人に一つ、そのルールを破ってはいけない。

 明確な殺意をひと目見て感じたので、ボクはわりとすぐに観念した。
 もう何も書けないのだ、と思った。書くという気持ちごと、いままでしょうせつを通して脳に入ってきていた何人もの人生ごと、撃ちぬかれてしまった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 シミズとその家族は、地球で新たな感染症におびえながらも幸せに暮らしている。彼と妻と、まだ生まれたばかりの子供。いくら進歩しても人間には人間をゼロから作り出す技術はまだない。
 シミズにとっては初めての、だいぶ年をとってからできた子供。子供の顔に自分と似たところを探しながら、おれが老人の時こいつがやっと成人か、そんな感慨を抱く。
 それはつまり、この子供が社会で何らかの役割を占めるようになる日には、シミズは社会に不要なものとして扱われているということだった。

 人間は、結局のところ自分自身を殺してくれる複製を生み出し続けている存在なのかもしれない。