四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

立止る

 彼が取り出した端末を見て、思わず「おぉ」と小さく声に出してしまう。
 それをしっかり聞き漏らさず、彼は前より少し痩せた顔で私に笑いかけながら手にした端末をぶらぶらさせて「そう、まだガラケー」と言う。
 10年ぶりに訪れた古都は、当時学生だった私が住んでいた頃からは少し様変わりしていて、外国人観光客が増えて市バスは路線によっては殺人的に混雑し中心部はホテルだらけになっていた。でも駅直結のホテルのカフェで10年ぶりに会う彼は、見た目はともあれ中身はあまり変わっていないようだった。
 彼は昔から文句ばかり言っていた。違法駐輪自転車の撤去について、美術館のショップの絵葉書のラインナップについて、バス停名とそれが指し示す交差点との遠さについて。個人の悪口は言わない。何か大きなものに向かって悪態をつくのが好きなようだった。実際、そうしている時の彼は怒っているというより、楽しそうなのだった。
 最近気づいたことがあってね、と彼はうっすらと何かに悪態をつく予感を漂わせながら話し始める。
 僕はOSのアップデートがすごく嫌いなんだ。昔は目に見えて進化していく機能にワクワクしたものだが、今はほぼ何も変わらないどころか不便さが増すことすらある。もはやアップデート自体が目的化しているようにしか見えない。
 知ってる、前からそう言ってたよね、と私は相槌を打つ。
 この人は私と同じように音楽を未だCDという形で購買している。音楽を持ち運ぶためにCDのデータをメディアプレーヤーに入れる必要があり、そのためにCDが読み込める古いPCを使い続けなくてはならず、そのPCにのせられるOSには限界があってメディアプレーヤーのバージョンも簡単には上げられず…みたいな面倒を私同様味わっているはずだ。
 彼は続ける。もちろんアップデート商法みたいなのも腹立たしいし、面倒くさいのが一番の理由ではあるんだけど、
 と、そこで彼は言葉を切って、一旦アイスラテのストローに口をつける。
 OS云々ではなくて僕は、アップデートというものそれ自体が嫌だったんだと気づいたんだ。
 私は目線を上げて彼の目を見て先を促す。
 口に糊するために仕方なく労働していると、「変化の速いこの時代に」「顧客のニーズをキャッチアップするため」とかなんかそんな感じの理由で、仕事上で自分自身のアップデートを求められたりする。残念ながら僕は職人的な仕事に就いているわけではなく、何をしてようが周囲を納得させるような金銭的成果を出しているわけでもなく、つまりは何ら特権的な地位にいないので、やれと言われたことは最大限サボりがらも取り組まざるを得ない。
 同じ大学の性のようなものなのだろうか、私も彼と同様に仕事ではいかにサボるかばかり考えているような人間なので、多いに共感し、少し大げさ過ぎるほど頷きながら聞く。
 そもそも変化が嫌な人間にとってこれはキツい。OSも自分も変えないままでラクしたい。ずっと泳いでないと沈む沼に落ちるのはしんどい。
 10年前に社会の矛盾や不備に悪態をついていた時と変わらない楽しげな顔で、彼はわりと絶望的な状況を口にする。
 明らかに会社員に向いていない性質、と私は自己紹介も兼ねて口にする。
 そう。僕だって「ミーハー」になりたかった。こないだ後輩に最大限の羨望を込めてこの言葉を使ったら嫌な顔されちゃったけど、社会の変化に柔軟に対応できる人は、それだけで素晴らしい才能をもっていると素直に思うよ。
 楽しげだった彼の表情に、10年前には見たことのなかった翳りがさしたように見えた時、待ち合わせていた別の同級生二人が現れた。全員がお互いに10年ぶりに会うわけではないが、お互いにそれぞれの距離感で懐かしみあって、私たちは予約しておいた料理屋さんに向かった。

 食事を終え、この町にホテルをとっている私と、この町に住んでいる彼以外の二人を私鉄駅で見送って、私たちはもう一軒杯を重ねることにした。
 みんな大人になってたなぁ。彼はカウンターに置かれたウイスキーの注がれたスニフターを両手で包み込むようにしながら、作ったような笑顔でそう言った。
 私は空いたグラスを前にして、次のお酒をどう頼もうか思案しつつ、今近くにいる若いバーテンダーさんじゃなく、学生時代に蒸留酒に入門した時の私の師でもあるマスターに注文したいんだけどな、とわがままなことを考える。私の曖昧なお酒の注文に応えてほしいからだ。
 それに気がついたのか、彼は遠くのマスターに手を挙げて合図して、その後に私の空いたグラスを指差した。
 モルトで、香りが華やかで余韻が長くて、あ、ピートは少しならあってもいいです、度数は高めでも大丈夫、という適当な注文にピタリと応える見事な一杯を楽しみながら、少し声が低く語調も緩やかになった彼の話を聞く。
 変化に応じて自分を変えるというのは、日々醜くなっていくこの世界を追認する行為じゃないか、と思ってしまうんだ。そんなのは、不当なものだとずっと感じ続けてきた現実に、自分の方から迎合しにいく行為だろう。
 彼は自分の言葉が子供っぽく響いているのをはっきりと自覚しているようだった。情けなさを噛み殺すような表情をしている。こんな愚痴、申し訳ない、と彼は言うが、私は友人として今でも率直に接してくれることが素直に嬉しく、そう伝える。
 彼は短く感謝の言葉を言う。そしてマスターに最後の一杯を注文する。私もそれに追随し、この懐かしさと切なさの入り混じった夜を締め括ることにする。

 バーからホテルまでは近いので歩くと言うと、彼は送ると言う。家までタクシーだから途中で落としていくよと提案してくれるが、酔い覚ましに歩きたかったのでそう伝える。結局、ホテルまで一緒に歩いてくれることになった。
 学生時代何度も渡った橋で川を渡る。ふと見上げると、新月だからか、星がよく見える。橋の真ん中で立ち止まって二人で空を見上げる。
 この世に生まれた以上は、やっぱりなんらかの普遍に触れたい。
 彼はぼそりとそう言った。
 一端でもいいから時代精神や地域的特性を超越できるような世界を貫通する何かの存在を感じてみたい。だから変わっていくものより変わらないものの方に興味がある。
 そう言った彼に私は、変わらないでいることは大変だと思うけど、私は変わらないあなたを楽しみにしてる、と言う。
 相変わらず無責任だな、と彼は笑う。10年前よりも少し皺が多く刻まれた、その分深みのある笑顔で。





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