四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

嵌る

 同期の集まりがあって、よく見る顔も10年ぶりくらいの顔も揃う10名弱の食事会だったのだけれど、皆それぞれ年相応に後輩や部下がいて、指導や育成について愚痴を言い合っていた。私は指導する側の人間としてその話題に積極的に参加するような器も熱量もないので、なんとなく相槌をうちながら聞くともなく聞いていた。
 愚痴なのでそもそも美しい言葉ではないわけだけれど、どうしても気になる言葉があって、それが特に男性がよく口にする「キレそうになって」「俺ならキレる」「あん時はキレた」などの恐らく強い怒りを示すのであろう発言だ。
 暴力的で嫌だというのではない。私の中では「キレる」というのは理性を失って自分を制御できなくなり怒りに身を任せて行動してしまうこと、だと定義されている。そんな状況は人生に一、二度起こるかどうかだと思うのだが、彼らは日常的にそれを経験しているらしい。しかも感情を制御しきれないというのは一種の忘我状態のはずで、よく記憶が残っているなと思うし、「キレる」に至っていない「キレそう」という状態についても、そんなに客観的に自らの記述できるものかなと疑問に思う。
 正直に言えば上のような指摘が意地悪だとは私も気づいていて、これについては、あまり好きではない言葉だが激しい怒りを示す一種の慣用表現なのですねと受け入れてはいる(違和感は消えないが)。
 そんなことを思いながらいつもどおりボンヤリと目の前のグラスの内容物を着実に消費していて、最近同じような違和感を感じていたのを思い出した。
 同じ部署の20代半ばの女の子は、彼女にとって笑うべき表現や状況に触れると「ウケる」と口にする。もちろんある程度笑顔にはなっているが、笑い転げるというほどではまるでなく、平静さを保ちながら自分の状態を客観的に分析している。今日の彼らの「キレる」発言と同じく。
 これも慣用表現だし、最初は私も少しの違和感を感じただけだった。そんなことにいちいち違和感を感じる自分の偏屈さを再確認したくらいのことだ。
 でも、連発される「ウケる」(或いは「ハマる」なども)を聞いているうちに、そして彼女だけではなくその種の発言をそこかしこで耳にするうちに、なんだか悲しくなってきてしまったのだ。
 人は皆、こんなにも懸命になってウケたりハマれたりするものを始終探しているのだなと。本来なら自らを分析などできぬような忘我状態を示す言葉を使って、制御し切れている感情、つまり本来的なウケやハマりからはほど遠い状態を表明している。そのようにして自らの感情を無理矢理定義づけ、ともすれば醒めてしまいがちな自分を鼓舞し、本当はウケることやハマるものなど何一つ無くなってしまった世界を何とか誤魔化していこうとしているのかもしれない。
 と、テーブルで交わされる会話にまるで参加せずに自分の頭の中でだけ過ごしていると、右隣のわりと仲が良いほうの同期の女性が続けていた「推し」の話に巻き込まれる。なんでも最近初めて男性アイドルグループにハマって、手製の応援グッズを持ってライブに参加するだけでなく新作ブルーレイを(ファンみんなと)鑑賞する会に参加したり、何しろ忙しく楽しく充実しているとのことだった。
 彼女は言う。わたしはもう若くないから、推しに彼女がいることが判明しても会社に来れなくなったりはしない。同担拒否(同じ人を推す別のファンの存在を意識から排除すること)もしない。ただ推しを推すという行為とその時の自分の状態を楽しんでいる。
 なるほど、これも制御できる感情を楽しむ文化か、と私が感じていると、
 推しは複数存在しても倫理的に(少なくともわたしは)問題ないし、こちらの都合で距離感も決められる。勝手な幻想を抱こうが、暇な時だけ都合よく楽しもうが、急にやめて別の対象を推そうが、自由である、と彼女は宣言する。
 つまり、恋愛ではタブーとなるような行為も許されていて、個人の都合に合わせた運用が可能な汎用性があると、と私が応じると、彼女は我が意を得たりという満足そうな笑みを見せる。私は、じゃあさ、と続けて、
 個人の都合を無視して始まりがちで、手間がかかって面倒くさく得をしないことも多い人間同士の恋愛をする必要はもうなくなっちゃうかもね、と言う。6、7年前に結婚して子供も学校に通い始めた彼女は、それに何の問題があろうか、という顔をしている。かく言う私も別に問題はないと思う。人間同士の恋愛は、なんというか、時代遅れになり始めてた気がするのだ。前世紀末あたりから既に。
 飲み会の帰り、駅のホームで風の冷たさに我慢できず、自販機で温かい飲み物を買い求める。ターミナル駅を見渡すと、看板も電車の車体も、目に入るものたちに誰かの「推し」が溢れている。
 私が不思議だったのは、彼女たちが自分の「推し」「ウケ」「ハマり」を積極的に表明することだ。醒めがちな自分を鼓舞してるのかな、と書いたが、そうではないのかもしれない。衝動的な感情を自ら分析しカテゴライズしてラベリングし、それによって他者との共有・共感を容易にすることは、急な喪失に対するある種の備えになり得る。負の感情が生じた時にそれを即座に分かち合える存在の確保。感情のセーフティネット
 人間はだいぶ賢くなったと感じる反面、衝動すらも他者と交換可能なものになっているのかと驚きもする。
 そして私を取り巻く広告たちを眺めてこうも思う。
 絶えずワカるを求めてしまう人間の本来的にもつ孤独と、流通(換金)不可能なものは存在しないものとして徹底的に排除する高度情報化社会が握手した結果、非常に合理的な市場が生まれ、得をしたのは利潤追求システムだけなのではないだろうか、と。
 そんなグロテスクな想像をしながら、一度でいいから部署の後輩の女の子を心の底から笑わせてみたい、と思った。