四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

うせもの

 ホテルの敷地内にある庭園には宿泊客もしくはレストランなどの利用者しか入れないということになっていたが、ラウンジもカフェも満席だったため、大した罪悪感もなく規約を無視して庭園に侵入する。
 敷地の南側を流れる川沿いの急斜面を生かした、大きな高低差のある回遊式庭園。10分ほどで一周できる規模だが、都心の喧騒からは隔離されていて心地よい。紅葉はまだ見頃には程遠く、見回せばいくつかの木々の葉が色づいている程度だが、柿の実がなり、風は少し肌寒い。秋だ。
 このホテルに来るまでに既に1時間近く街を歩いてやや汗ばんですらいた私は、脱いで手にもっていたジャケットを再び羽織る。彼女と最後に会った日にも来ていたウールのジャケットだ。あれからちょうど半年が経つ。
 ポケットに小さな紙片が入っていたのに気づいた。買い物をメモした付箋かと思ったら、見覚えのないおみくじだった。私はこのジャケットを春からクリーニングに出していなかっただろうか。そこで私は先日の親族の葬儀の後に出したスーツを受け取りにいっていないことを思い出す。四十九日はもう来週だ。後で携帯に予定を書き込まないとないといけない。
 庭園の最も高い場所にある三重塔を目指して階段上の道を上っていると、草に身を隠すようにしてあちらこちらに張り巡らされた鉄製の管から、一斉に霧状の水が吹き出す。そういう趣向があるのは聞いてはいたが完全に忘れていたし、予想以上の水量にも驚いた。手にしていたおみくじが少し湿る。
 おみくじは神社で引くようなものよりもチープな、子ども向けのおもちゃに入っていそうなカジュアルな文体で書かれている。歩きながらだからか、その文体のせいなのか、何度読んでも中身が頭に入ってこない。一番上に描かれた寿老人のイラスト(七福神みくじ・6『寿老人』、という字とともに、何とも特徴のない老人の絵が描かれている)だけがやけに印象的だ。
 そういえばこの庭園にはところどころに七福神の小さな石像が置かれている。スタンプラリー的なモチベーションで思わずチェックしてしまっているが、未だ5人しか見つけられていない。寿老人はまだだ。あともう一人は、今は思い出せない。後で携帯で検索しなければ。
 人工の霧に包まれつつある庭園の中は、混雑というほどではないが、自撮りする女性グループ、散策するカップル、ホテルでの結婚式を終えたらしい同じ紙袋を持った集団など、それなりに人がいる。私はいつものようにその人たちの中に彼女がいないか、いや、彼女を予感させる何かがないかを探す。当然見つかりはしない。
 もはや周囲の視界がほとんど霧で遮られるような状態だが、放水は止まない。着物を着た若い女性たちは「雲海だ」などと言って楽しそうだが、その姿もやがて見えなくなり、くぐもった声だけが残響のように聞こえる。歩くのも危険に感じて立ち尽くしていると、左前方から懐かしい匂いがした。
 嗅ぎ慣れた香水の柑橘香を追って霧の中へ入る。全く喉は渇いていないがペットボトルのお茶を買っておくべきだったという確信めいた後悔を何故か覚える。霧の先は急な登りになっていて、たまに手をつき地面を確かめながらゆっくり進む。香りは微かだが確実に存在して私を誘う。
 霧の中に三重塔がぼんやりと見えてくる。私は携帯を取り出して塔を写真におさめようとする。これ以上近づくと画角に入り切らない。ただここからでは塔の輪郭はあまりにぼんやりしている。この写真では彼女に送信することはできない。また今日も私は彼女に送るものを見つけられない。
 突如打ち切りになった週刊連載漫画のような形で彼女は私の前から予告なく姿を消した。私はずっと、彼女に連絡するための方便として、美しい何かの写真を撮ろうとしている。しかし無邪気に共有したくなるほどの風景はずっと目の前に現れてくれない。世界はこれほど色褪せていただろうか。
 私は香りに集中する。手首にスプレーして擦り合わせ、臈たげな仕草で首筋に香りを移していた彼女の姿を思い浮かべる。
 この先に彼女がいるとする。私と彼女を隔てるのはただの霧だ。しかしそのベールが晴れることはあるのだろうか。
 いつの間に回り込んでしまったのか三重塔は後方に消え、しかし香りは消えずに霧の奥に漂っている。足元の道はいつしか下りに変わっていて、私は小走りのような速さで香りの出所を追う。それはきっと人影に違いない。
 ずっと同じ距離を保って私に先行するその人影が、見慣れた後ろ姿のように見え始めた時、私は手にしていたおみくじを落としてしまう。落としてから惰性でしばらく歩を進めてしまっていたので、取りに戻れば彼女を見失ってしまうだろう。しかしそんな一瞬の迷いが既に命取りだった。香りはもはやどこにもない。
 歩を戻すと意外と簡単におみくじは見つかった。そしてそこには新たな石像も見つかった。寿老人かと思うが違う。数が多い。羅漢像だった。10や20ではない。見渡すとそこら中に置かれている。人工の霧は引き、鬱蒼とした林の中の自然な水気を含んだ空気に包まれる。三重塔も庭園ももはやどこにも見えず、苔むした羅漢像が思い思いの表情で私に目をやっている。
 羅漢が埋め尽くす山。ここには以前も来たことがある。まさにこの羅漢像を目指して禅寺を訪れたのだ。確か彼女の提案だった。気に入った表情の羅漢を見つけては写真を撮っていた。私は写真を撮らなかった。そして彼女から写真のデータをもらうこともしなかった。そんなことはいつでも可能だと考えていたからだ。
 ここにはあの時と同じ羅漢像が並んでいるが、彼女の視線がどこに注がれていたのかはもう分からない。こうして私は失われたものがまだあったことに新たに気づくのだ。現在進行形の喪失。
 山を下りて禅寺から出る。迷いなく進んで鳥居が並び立つ観光客で溢れ返る場所に辿り着く。そこにも写真に撮って送信すべき風景はない。最も美しい模範解答のような写真は既にインターネット上に溢れている。彼女を失ってから、私はまだ一度もシャッターを切っていない。気ばかりが焦る。
 人混みを嫌がって人気のない方へない方へと進んでいくと、線路沿いの細い道に出る。陽はだいぶ傾き、既に赤みがかった光を鈍く光るレールに注いでいる。ふと郷愁が湧き上がり、立ち止まってレールにピントを合わせようとするが、あいにく電車がやってきて視界を塞いでしまう。
 普通の客車に見えるのだが、貨物列車のように長く連結されてでもいるのか、いつまでも通過し終わらない。音の喧しさには次第に慣れてきたが、一種暴力的な圧迫感が嫌になり思わず目を閉じると、列車の音はいつの間にか止んでいた。
 目を開くとすっかり夜だった。月は今日も凡庸な姿で宙に浮かんでいる。
 私は線路を離れて細い路地に入り込み、元いた場所に戻れる抜け道を探すが、そんなものが本当はないこともはっきりと自覚している。
 手の中にずっと握りしめていて、すっかりぐちゃぐちゃにになったおみくじがこうアドバイスしている。「なくしたものは いがいなところに まぎれこんでいるかも じぶんのパンツのなかとか!?」
 失われたものは実際、私の中にしっかりと住みついている。確かな架空の存在として。