四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

拵える

 美しい横顔だ、と私は思う。
 隣に座る彼女はずっとカウンターの向こうを凝視している。料理人の動きをつぶさに観察しているのだ。時折、あぁ、という形に口だけ動かして得心していたり、目を見開いて驚いたりしている。
 私は邪魔するのは良くないと思い、彼女の横顔を肴にワインを楽しむ。
 料理人1人給仕の人1人の小さなスペインバル。カウンターのみの客席がいっぱいになって殺到する料理の注文を、料理人の男性がてきぱきと合理的に、しかし丁寧に皿の上に実現していく。昨日観た映画すら1つのシーンが思い出せればいい方、という残念な記憶力の私には、注文を覚え調理手順を忘れずに遂行するというだけで魔法を使っているように見えるが、隣の彼女が見ているのはもっと技術的なことのようだった。
「美味しいものが美味しくなるように作られているって知ったの、いつ?」
 彼女は私たちの前に届けられるまでずっと手順を目で追い続けた料理をシェアしながら、私に尋ねた。相変わらず料理の取り分け方がきれいで感心するが、質問の意味が分からず、目でさらなる説明を乞う。
 私は大学の時なの。それまでは「美味しいもの」イコール「好物」だと思っていたのね、チョコレート、とか、オムレツ、とか、自分が好きな素材や料理のことを「美味しい」と言うと思ってた。
 言葉の用法としては合ってる、と私が言うと、
 そうね、でも大学生の時に友達とあるケーキ屋さんに行ってね、わざわざ電車で2時間かけて隣の隣の都市まで出向いてね、暇だったのよ、そしたら私、初めて食べ物で感動して泣いちゃって。
 そこには意志があった、食べる人に美味しいと感じさせるという強い意志。粉やバターといった基本的な素材の吟味、チョコレートの滑らかさ、お酒の利かせ方、風味や食感の組み合わせの妙、全て綿密な計画のもとに積み上げられていた、と彼女は言う。
 なるほど、と私は言い、つまり好悪、或いは快不快と言い換えてもいい、そういった個人的感覚だけでは測れない、絶対的な美を発見したわけだね。
 相変わらず面倒くさい言い方ね、と言いながら彼女は同意する。だから私は料理が作られていく様を見るのがとても好きなの。こういうオープンキッチンのカウンター席だとずうっと見ちゃう、と言って私に、ごめんね、と謝る。退屈させちゃうでしょう、昔からそうで良く夫には怒られた。
 私は全く気にしていなかったので、正直にそう告げる。この形式の店に彼と来にくかったら代わりにいつでも私を誘って。彼女は少し間を置いてから笑顔で頷く。
 ほらこうやって、と小声でカウンターの向こうの料理人の手元を指差し、薄切りにしたニンニクの芽の部分を丁寧に抜き取っているのとか、そういうのって一大プロジェクトの些細だけど重大な一部を目撃している気持ちにならない?
 楽しそうだった彼女はふと表情をなくして手元のグラスを見つめ、
 それでね、別れたの。夫とは。
 私が反応できずにいると、先月なの、報告が遅くなってごめん、と言う。さっきの婚姻関係の維持を前提とした言葉の失礼さとか、そもそもそうなるまで特に何も気づいていなかった自分についてとか、羞恥や後悔に苛まれながら、話をもう少し聞いてもいい、とだけやっと伝える。
 私たちは丁寧に生活を積み重ねているつもりだった。家庭という二人にとって絶対的なものがあって、お互いが持ち寄ったものを少しずつ組み合わせながらそれを正しく構築していっていたはずだった。でもいつからかそこに、お互いの好みのものを持ち寄るようになり、気づいたら二度と作り直せないような失敗作が出来上がっていた。
 彼女は自分たちが出した結論に納得しているようだった。だから私に言えることは何もなかった。
 さっきのあなたの言葉で言うと、絶対的に美しい家庭、を築けなかったというわけ。
 それは違う、と私は言う。咄嗟の反応でその後うまく言葉が紡げない。手の動きで彼女から少し時間をもらえるようお願いし、ゆっくりと続ける。
 絶対的というのは万人が共有できるという意味で、そんなの家庭に敷衍する価値観じゃないと思う。そもそも私なんか食べ物だけじゃなく、全てにおいて絶対的な美を知らない。好みの小説ばかり読んできたし、好みの小説ばかり聴いてきた。絵画だってまず自分の好みに合致しないと、その絵の前に立つことすらない。私は結婚を知らないけど、少なくとも夫婦は全然違うお互いの好みを持ち寄って押し付け合って歪で不可思議な形のなにかを作ってもいいと思う。
 私は「絶対的」なんて言葉を軽々しく使ってしまった自分のせいで彼女の結婚生活が破綻したようなおかしな思い込みにとらわれて、必死に言葉を連ねてしまう。
 彼女は優しい笑みを絶やさずに私の言葉を聞いていた。ありがとう、そう言ってから、
 あなたの言うとおりかもしれない。でも私は、私たちは、二人の作ったものの醜さに耐えられなくなってしまった。だから逃げ出したの。
 結局幼いのよ、私たちはずっと。
 そう言ってまた熱心にカウンターの向こうを観察し始める。