四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

転送(2)

 「たまに生きてるヤツが居るから困る」 確かにカネはいい。しかし、たまにこんな風に、自分で手を下さなければいけない時がある。 当たり所によっては、一人の人間の体のどこにこれだけの血液が入っていたのかと思うほどの血が噴き出す。その血を拭くのも俺だ。
 うまいこと装置の中でおっ死んでてくれたとしても、その水死体を片づけるのだって楽じゃない。詳しい事はよく知らねぇが、ドザエモンを作るのに使ってるのが、どうも単なる水じゃないらしく、やたらとテラテラしてて気持ちが悪い。パンパンに膨れ上がってるくせに、口の中でゴボゴボうがいみたいな音を立ててるだけで、なかなか水を外に漏らそうとしない。ただ耳からだけ、ジットリと垂れるように少しずつ排水してきて、それがまた気持ち悪い。
 この間横に寝ていた女が、この「うがい」と同じような音のいびきをかきやがるもんだから、ぶん殴って追い出してやった。生理的にダメなんだ。あれは今思い出しても殴り足りないくらいムカついた。
 シミズの驚いたような死に顔をモップで殴りつけて憂さを晴らしつつ、そもそも装置が欠陥品なんじゃねーかと愚痴りながらアマミヤは処理を始める。

 転送先にデータを送信した後、転送元に残ったスキャン対象は、始末しなければならない。そうしないと、同じ人間がこの世に2人存在することになってしまうからだ。もちろん、転送先の人間は健在なので、これが殺人に当たるかどうかは判断の難しいところだ。どちらかというと、転送された本人にとってはありがたいアフターサービスのはずなのだが。
 万が一法的に殺人という解釈をとられてしまうと、いくつかの解決すべき政治的問題が生じるため、この「後処理」については極秘とされている。このご時世でも、人道主義的なお題目を掲げて活動する輩たちがまだいる。それで自らを利するならば、海棲哺乳類どころか軟体生物さえも殺すなと主張できるのが人間だ。そういう者どもに目を付けられると、黙っていただくためのそれなりの努力が必要となってしまう。
 当初はスキャン用の電磁波の影響で、スキャン元の人間は命を保てないだろう、と考えられていたようだが、健康への悪影響が発現するまでに時間がかかりすぎるため、「処理」が必要となってしまった。
 ただ、転送機の原理を知っていれば、「処理」が必要なのは、さほど想像しづらい事実ではない。多くの人がうすうす感づきながらも、指摘して面倒な事実を炙り出すことの無意味さにも気づいているということなのかもしれない。

 「悩みの元は明かせないが、俺は悩んでいる。」
 こんなヤツがいれば、ある程度の愚かさには寛容な酒場でさえ、鼻つまみ者として扱われるのは当然だ。それはしょうがない。しかし、俺が俺の仕事について喋ると、体内に仕掛けられた何かがどうにかなって、死んだりするらしい。秘密を守るためにそうなっていると説明された。死ぬのも怖いが、その死に様のみじめさも怖い。だから俺は何かを仄めかすだけの愚痴を並べ立てる厄介な客になっている。と、アマミヤは自覚はしている。
 月では高い酒がさらに高くなる。カネだけはあるアマミヤは、普段は話すこともないようなお高くとまったヤツらと、酒だけは同じようなものを飲める。自分が場違いなことで逆説めいた加虐心を満たすことができる酒場が、アマミヤは好きだ。
 いくつかのエステルを加え、古式蒸留を再現したかのような雑味を引き出したポットスチル風ウイスキー、とやらを、ありがたそうにちびちびやっているヤツらを横目に、モノホンのスコッチ旧ボトルを一息で空けてやるのだ。
「図書館に行くといい」
 最後の良心を絞り出して、アマミヤの3回目の「ラスト1杯」を丁重に断りつつ、マスターは助言する。
 アマミヤはもちろん、字が読めない。が、図書館とやらがあることは知っている。
「あれはお前、精神病院みてぇなものなんだろ」
 会計を済ませたアマミヤに、もう答える義務はないとばかりに沈黙が返ってくる。

 かつて図書館という場所は、断片的で未整理な情報資源をただただ収集していただけの場所だった。前世紀においてはデジタル化さえされていない情報を、「書物」という非効率な出力形式で蓄積した物体、その物体自体の集積場だったという。
 「書物」はその一つ一つが別個の人格によって編まれており、情報の確度や密度、伝達方式に大きく差があった。
 その書物の中に、「しょうせつ」と呼ばれるもの達があり、おそらく伝達方法の一分野を総合的にカテゴライズした言葉だと思われるが、これらはその特殊性で他の書物と一線を画している。
 端的に言うと客観的な情報の伝達を目的としていない書物であり、そもそもその情報自体が不正確、というより完全なつくりごとであることがほとんどであり、おそらく情報受容者を情緒的に刺激することを主眼として編まれていたものらしい。
 虚構情報による情緒的な刺激、という理解しがたい現象は長く忘れられていたが、昨今この分野の研究が一気に進み、その結果として生まれたのが現在の「図書館」ということになる。

 「話が長ぇ!」
 アマミヤは机の向かいに座った「司書」の女性にキレてみせるが、もちろん司書はプログラム通りのヒアリングを進行するだけなので、何の意味もない。
 まさか生まれた場所から聞かれるとは思わなかった。今の仕事の愚痴だけ簡単に話せば、何か知らない方法でうまく俺をハイにしてくれるんだろ、程度の認識しかなかったアマミヤは、1時間も前からうんざりしていた。
 この椅子になんとか彼を繋ぎとめているのは、ここまでに使ってしまったカネと時間、今やめたらその二つがもったいないという貧乏根性だけだ。仕方なく、司書の質問に丁寧に答えていく。雑に答えると、一旦質問がもう少し抽象的になって、3問くらいして結局同じ質問をされる、ということに気付いたからだ。就業規定違反にはなるのだろうが、自分の仕事についても、口止めされていない点については正直に答える。
 さして広くない部屋に不釣り合いなほど高い天井。その縁まで届く高すぎる棚に入っているやつが、恐らく「書物」という奴なのだろう。ただ、それを背にするこの司書と同様に、すべて単なる立体映像なのかもしれない。いずれにせよ、居心地のいい空間ではない。
 責め苦のようにいつ終わるともしれない質問の洪水を浴び、アマミヤは自らの過去を洗いざらい吐露させられていく。

 「しょうせつ」の人体に与える影響についての研究は、この書物が隆盛を極めていた前世紀には既にその端緒を開いていたようだ。「しょうせつ」を読んだことのない人間を探す方が珍しい時代もあったというから、学術的な研究対象となるのも当然だろう。
 ただ当初は、古今東西の膨大なテキスト群を単に分類する、或いは任意のテキストを個人的な尺度で分析する、たいそうに「言語芸術」と定義してその構造上の美点を指摘する、など、お世辞にも本質的とは言い難い研究が主流だった。
 なぜ人間の脳は、物語というフレームを使わないと、現象の把握すらも難しくなってしまうのか。現在では常識であるこの脳の脆弱性に、当時の研究は注目すらしていなかったのだ。

 「一番高いヤツだ。高級なヤツ。」
 3時間かかってやっと解放されそうだ。司書の女が話を聞きながらメモを取る体で握っていた筆記用具を手放し、「今、あなたのためのしょうせつが書き上がりました」と告げた時は、既にそのことだけで感動してしまいそうだった。
 「アウトプット方式はどうなさいますか。たとえば…」。これ以上時間を取られてたまるかとアマミヤは話を遮って、値段が高けりゃいいのだろうと出力方式を指定した。
 「となりますと、豪華皮装版のアナログプリントになりますが、失礼ながら文字列読書の経験はございますか?」質問の意味も分からないとアマミヤは適当に相槌を打ち、他人に読ませないでください、複製しないでください、手放さないでください……などの長ったらしい注意事項をまるきり聞き流して帰り支度を始め、自動的に開いた机の引き出しに置かれていた紙の束を革でくるんだ物体をひったくって出て行く。

 我々が諸々の事柄の認知において、既にインプット済みの「物語」を敷衍してあてはめ、認識の助けとしていた事、そしてその事によって、重大な誤謬の元となる認知バイアスが生じていた事は、過去の人類の愚かさの代名詞として、現在は広く知られている。
 しかし、今世紀初頭においてもまだ、そういった誤謬とそれに基づいた判断は、常識的に行われていた。
 曰く、「成功のためにはどんな人間も努力が必要である。」
 目標への努力→成功、という物語は圧倒的にメジャーなものとして刷り込まれていたため、個々人の能力の多寡に関わらず、努力は必須なものであるとする誤謬。
 曰く、「その人(他者)の立場になって、どう感じるか考えてみよ。」
 もし私が被差別者だったら、などという反実仮想を基にした論理構築で、情緒的に他者への差別や攻撃を悪と規定する誤謬。
 もう笑うしかないような誤謬もある。「報い」という言葉で、完全に独立している事象同士に、オカルトとしか言えない非合理な因果関係を敢えて自ら規定し、現在の不利な状況の説明としていたというものだ。
 現在我々は、ある程度は物語から自由になり、合理的な判断・行動を採用できるようになってきている。
 とはいえまだ、月において意図的に地球と同じ重力状況下で育てた家畜の肉を、その飼育法による化学的組成の変化以上に、美味になっていると感じたりする。味覚や嗅覚は特に、相互に混同する事も多々ある曖昧な感覚であるためか、認識に物語性が混じり込みやすいらしい。
 物語フレームから完全に自由になることは、脳の構造上不可能だとも言われている。
 しかし我々が、必要以上に物語に縛り付けられていた時代から比べて、明らかな進歩を遂げたのは確かだ。

 結局二度手間になった。
 本とやらを開いて2、3行目を通してすぐ、自分には解読不能なものだと分かった。自分が普段使うことばと同じ言語を使用してはいるが、メールや仕事上の通達などと違い、必ずしも情報を簡潔且つ正確に伝達することを目的としない文章は、慣れないアマミヤにはハードルが高すぎた。
 質問攻めに遭った疲れから、とりあえず落ち着こうと入った適当な酒場を1杯で切り上げ、その足で図書館に戻って「もっと読みやすいものをよこせ」と申し出る。
 説明を聞こうともしなかった自分の失態が原因であることが、アマミヤの苛立ちを加速させ、大きな声を出させた。
 どういうサービスなのか、先ほどとは違う女性のビジュアルをした司書は慌てもせずに、「それでしたら文章のリズムとしての美しさはやや損なわれる可能性がありますが、不明点があった際に適宜逐語訳的ガイドの入る音声出力ver.でいかがでしょう」と最も“読みやすい”物を推薦する。意味も分からねぇし、言うとおりにするだけだ。
 最後に司書に、念のためお渡しした小説は廃棄されることを強く勧めますと言われても、豪華皮装版とやらはさっきの酒場に置いてきてしまっている。いずれにせよ、もう捨てられているだろう。あんな物を読める奴がいるはずもない。

 認識・判断において「物語フレーム」を遠ざけることに成功した我々は、必然的に「しょうせつ」を理解することが難しくなった。すべての「しょうせつ」が、その構造において物語形式を採用していた訳ではないが、細部の表現などにおいて、物語性を一切無視して作られたものはない。そのように書かれた物を理解するには、我々は進歩しすぎたのだ。
 そうして忘れられていた「しょうせつ」に光が当たったのはごく最近のことであり、物語が脳に与える好影響の研究は、諸説入り乱れている段階で、いまだ学問として成立しているとも言い難い。
 一説には、現実とは全く別の世界が描かれているものを読むことで、一人の人生に限定的な可能性しか与えられていないことへの絶望を和らげてくれる、とか。
 あるいは、必然的に個人に降りかかる理由のない不幸を、物語のせいにできることが救いになるのだ、とか。
 いずれにせよ、しょうせつを読むことが一種の精神的なセラピーになることは臨床的成果で実証されており、人間の最も壊れやすい臓器である脳を不可逆的な破損から守るべく、図書館は設立された。
 司書(入力装置)に自分の状態および記憶等を申告すると、今まで描かれた物語の膨大なアーカイブから、構成、筋立て、文体などの必要な要素を組み合わせて、オリジナルのしょうせつが作り出される。依頼者は自らの悩みや痛みが美しい文章で描き出されているものを、客観的に読むことによって、精神的苦痛が昇華され、相対化され、解決に近づけるとされている。

 地下鉄で図書館から帰る途中、隣に座った老人のハンドクリームの臭いが気に障ったから殴った。24種のアレルギーをもつ自分の前で、鼻を刺激する臭いを発するなんて、常識がなさ過ぎる。老人は殴った時の手ごたえがなま軟らかく、それがまた不快で怒りを増幅させる。
 結局5発ほどくらわせて、それ以上殴るのも面倒臭くなった。倒れて物も言わなくなっている老人が首から下げた汚らしいIDカードを引きずりあげ、端末を近づけてカネを振り込んでやる。
 年金システムは正常に作動し、相応額がアマミヤの口座から老人に払い込まれた。
 それを確認したアマミヤがつかんでいたIDを手放すので、首を支点に持ち上げられていた老人の体は俄かに床に叩き付けられる。力の入っていない頭がゴブッという音を立てて落ち、首がおかしな角度に曲がる。
 死んだかもしれねぇが、振り込まされた額からすれば問題ないだろう。まったく、老人を飼っていく世の中ってのも大変だ。と、アマミヤはため息をつく。

 驚くべきことに、80を過ぎた老人と、20代の若者が、同じだけの政治的権利を有していた時代があった。長く見積もっても余命が10年に満たない人間と、まだ50年は生きなくてはいけない人間が、まったく同等の権利を与えられていたのだ。
 これなども「年長者は社会において(制限なく)尊重されるべきである」という根拠のない「物語」に人類が如何に捉われ続けていたかを端的に示す証左といえよう。
 その歪みはもちろん顕在化した。基本的にごく近い未来の事しか勘案していないような政策が採用され、将来的に予見される環境汚染などはそのリスクを異様なまでに軽く判断され、労働する力を失った老人を生き延びさせるために若い世代から搾取する法案が当然のように可決された。
 さらに、その制度は世界的に共有されており、そこから生まれる歪みが完全にどうしようもない状態に陥るまで、長い時間全世界で採用され続けてきた。
 代議員選挙等の投票において、平均余命から年齢を引き、その数を個人の持ち票数とする。そんな原始的な制度でさえ、施行に至ったのは今世紀中葉である。今では年金と人権の交換制度が整備され、就労能力のない老人に社会的矛盾やストレスの直接的・間接的はけ口としての地位を与えることで、共存関係を確立することができている。

 端末から先程の老人の血を拭き取り、インストールされた「しょうせつ」を立ち上げる。
 骨伝導音声刺激が自分とは全く別の人間の冒険譚を語り出す。地球の話だ。氷期に入った地球の北半球、緯度の高い場所。飢えと寒さ。圧倒的孤独。狩り、必要な殺戮。常に何かに追われている。見えない追手。犬橇での旅。巨大な遺都へ。得体のしれない建造物――。
 初めは、今自分が居るこことは時間的にも空間的にも異なる場所での話に、なかなか慣れることができなかった。もってまわった表現や、結論を表明しない物言いに、まだるっこしさを感じるだけだった。
 しかし、全貌をなかなか現さないその世界が、次第に輪郭をもって現出してくる様に惹きつけられるようになり、どうしても先を読む気にさせられてしまう。そして何より、そこに描かれている人物が、まるで自分と同じように確固たる自我を持って存在しているように感じられる事に驚いた。
 地下鉄の停留所を出て、自宅へと歩く途中も、アマミヤは夢中になって読み続けてしまう。クソ忌々しい事に、現実に引き戻されたのは、家に入って不具合が生じたメイドの処理をしなければいけないことを思い出したからだ。もちろんメイドの奴は不具合ではないと言い張るが、アマミヤの意のままに行動しなくなってきたのだから、不具合以外の何物でもないだろう。
 こんな時に、仕事で使っている銃がありゃあなぁと思う。死体の処理は清掃局に任せられるが、生命活動を終わらせるのは、持ち主であるアマミヤ自身が行わなければならない。プログラム上、抵抗はしないが、一人の人間を絞殺するのはハンパない労力だ。アマミヤはしばらくの間、「しょうせつ」の世界から離れることになる。

 ロボットに人工知能を搭載して、人間の奴隷として扱おうという研究開発が行われていた時代があった。複雑な人間の脳を、機械的に再現できると信じていたのだ。
 そこまで愚かではなかった人間はもちろん、複雑なAIの開発より、人間の脳をいじってロボットとしての自意識を持たせる方が楽だということに気が付いた。自分達が産みだす自分達のコピー以上に、奴隷に相応しい者はいないのだ。
 当然すぎるその結論にたどり着くまでに時間がかかった事にも、人類が「物語」に捉われていた影響があるのかもしれない。
 もし自分がその「奴隷」として生まれたら…、などという有り得ない妄想のような仮定をもとに、「ヒトとして生まれたどんな生命も平等に扱わなければならない」などと思い込んでしまっていたのだ。自分が自分として生まれなかった時の世界、という仮定に、論理学的にまったく意味が無い事を、どうしても理解できなかったらしい。

 自分以外の何者かが、自分と同じように考え、想い、悩み、目論み、世を呪っているなどと想像した事なんて、今までなかったことだ。現実世界に存在する他人についてもそうであったアマミヤが、実在しない「しょうせつ」の中の人物に対して、自分と同じような存在だと感じている。
 それは奇妙な感覚だったが、不快ではなかった。
 物語の続きが気になるという事よりも、その奇妙に晴れ晴れとした感覚を味わいたくて、アマミヤは清掃局へ連絡するも忘れて、メイドの死体を床に放置したまま読み続ける。
 今まで周りが全部壁の、扉のない空間に住んでいたような気分だったが、上を見ると「出口」があった、ちょっとキザかもしんねぇがそんな気分だ。自分以外も自分みたいなのがいる、この世界以外にもこの世界みたいなのがある、っていう妄想は悪くない。
玄関脇で腐臭を放ち始めているメイドの死体を細めで見やりつつ、こいつも何がしかの自意識的なものをもっていたのかもしれねぇな、と思う。
 でももし現実にそうだったとしたら…、
「気持ちワリィ」アマミヤは吐き捨てる。

 ある種のしょうせつには、例えば虚構の登場人物の心理的苦痛を、あたかも読み手自身の痛みとして感じさせるような、信じられないような知覚混同効果を発揮するものがあったという。過去に書かれていたしょうせつは、図書館がアウトプットする物とは違い、誰か特定の個人を読者と想定して書かれていたりしなかったにも関わらず、である。
 今でこそ我々は自身と他者を同列の存在として認識するような誤謬は犯さないが、かつての人類は、飼育している愛玩動物や、時によっては愛用している無生物にまでも、自分と同様の人格を設定し、それらに接していたという。まして同種の生物である他者(自分以外の人間)に対しては言うに及ばずで、旧人類は人間社会というものを、自分をそのうちのほんのひとつとした、さまざまな自我がひしめきあった世界だと認識していたようだ。
 なんというグロテスクな世界観だろうか。
 それでいて他者に対して寛容だったかというと、まったくそうではなかった。
 たとえば自分たちと同種の物語フレームで物事を認識しない人間や、同種の「道徳観」という物語を共有しない人間達のことを、一種の障害をもつ者として社会から隔絶した。実際はその種の人間の方が知能が高いことが多いと認識されていたのに、である。

 新たなメイドを購入し、旧メイドの遺体の処理を最初の仕事とさせる。今回はこの前のよりも2ランクほど上の性能をもつモノを選んだ。知的水準の高いDNAを有し、実作業スキルも多く身につけた奴だ。見た目もいい。何しろ、カネはあるのだ。
 今回はカネを使う気持ちよさのために、このロボを選んだのではない。アマミヤは、本格的にしょうせつにハマり出していた。自分の自由にできる時間を、なるべく多くの割合でしょうせつを読むことに注ぎたいと考えたから、雑務を全て任せられるタイプを選んだのだ。
 前のメイドが小便と吐瀉物で汚した床を掃除している新人にアマミヤが口を開こうとすると、「少しでも不具合が生じたら、自らで自らを処理する機能が備わっております。ご安心ください」と先んじた答えを与えられる。
 その利きすぎる機転にほんの少し苛立ちながらも、頭のよさそうな奴が自分に無条件で仕えている情景に、いつも通りの仄昏い愉悦を感じる。

 人類は、完全にとは言えないまでも物語から解放され、より正しい認識/判断能力を得た。まだまだ理不尽で非合理な行動をとってしまうこともあるが、例えば、能力以外の部分で人間を選別する偏見からは自由になった。逆に、能力の差があるにもかかわらず、無意味に同等に扱うような悪習も断つことができた。
 なかでも、モラルという、客観化不可能な習俗的認識から離れられたのは、人類にとって大きな進歩だった。
 時代や地域によって大きく異なっていたモラルが、語としてしか存在しえないことは自明だが、それが生来のものだと信じられていた時代もあった。不倫恋愛のしょうせつがひろく読まれると、実際に倫理に反する恋愛が流行するような時代だったのに、である。
 停滞していた人類は、この進歩によって、機械工学、生物学、物理学、医学など、さまざまな分野でそれまでにない発展を遂げることになる。

 どんなに便利な時代になっても。
 アマミヤは思う。肉体を維持することだけは、人任せにすることができない。
 大腰筋に負荷をかけるエクササイズマシンに腰掛けながら、しょうせつを読み進めようとするのだが、やはりなかなか捗らない。トレーナー役のロボが何か言いたげにこちらを見ているが、もちろん無視する。読むといっても音声をイヤホンから聴き取っているだけなのだが、筋力強化への集中力の低下は明らからしい。
 アマミヤの使っているジムは大型の施設で、今も30人以上の人間が、自らのメニューを必死にこなしているが、有酸素系の運動をしているものでも、アマミヤのように本を読んでいる、あるいは音楽を聴いているような者はいない。観ようとすれば映画も観られる環境なのだが、娯楽とエクササイズを両立させようとする者は見受けられない。基本的に皆自分のエクササイズに黙々と励んでいる。
 肉体が老化したと判定されてしまうと一気に社会における地位が下落してしまうので、頑健さを維持しようとするのは当然のことだ。
 明らかに肉体は悲鳴を上げているのに、依然と同じメニューを無理にこなそうとしている奴もいる。見苦しいことだ。そんな足掻きがより老化を早めたりするのに。
 アマミヤは老化開始と判定されたら、すぐに仕事場で自分の頭を撃ち抜こうと決めている。醜態をさらしたくない、なんていう見栄じゃない。合理的に考えたら、誰でもそうするだろ、って話だ。
 ただ、まだそれはだいぶ先の話のはずだ。

 物語から解放され、不完全で歪んだ認識から自由になったはずの人類が、また物語を必要とし始めている。
 一見これは、大きな矛盾、あるいは深刻な後退のように感じられるかもしれない。が、もともと人間の脳が(良い意味でも悪い意味でも)、非常に不完全なものだということがはっきりした現在、セラピーとしてのしょうせつ利用の研究が進むことは、やはり人類にとっての進歩といえるだろう。
 それは個人の精神衛生上の問題を解決する、単なる手段のひとつに過ぎず、人類全体の認識や判断方法に大きな変更を求めるようなものではない。
 人類は、一種の物語中毒ともいえるような、過去の愚かで誤った状態に戻ってはならない。これは人類共通の認識である。
 偏見から解放された知だけが、人類を前に進めてきたのだ。

 物語はどうやら終盤に近付いてきたらしい。
 伏線は回収され始め、全ての軸となっていたひとつの主題のようなものがはっきりとしてきた。登場人物達はそれぞれの終焉・収束を迎えつつあり、いくつかの作品中で提示されてきた視点がひとつの立体的な像を結ばんとする。
 そしてアマミヤは、作品世界を客観的に眺めて美しいと感じながら、同時に作品の内側に自分も存在するような、極めて混乱した気分を味わうことになる。その混乱は、一種の陶酔に近く、アマミヤは本を手放せなくなる。
 そして最後の日、眠らずに小説を読み終えたアマミヤは、寝不足ながらも蘇生したような快感と共に、その生涯最後の朝を迎える。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆(つづく)