四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

ya tienen asiento


 国境線の上をなぞる尾根歩きは見晴らしも良く足は軽快に進んだが、飾り気のない頂上で尾根道は尽き、私は少々の逡巡の末、左のほうの下りの道を選んだ。しばらく歩くと灌木が周囲に現れ始め、そうかと思ううちに道は深い森へ入った。
 もう5日ほど人を見ていなかったので、急に視界が開けて下方に村落が見えた時は、幻ではないかと疑うほどだった。
 今夜はまともな寝床にありつけるかもしれないと、小川沿いの道を歩を早めて下る。水汲みだろうか、頭に木桶を載せた少女を追い越す。と、違う。追い抜きざまに振り返って見ると、頭に載せているのは椅子だった。
 彼女も私を見て、一瞬不思議そうな表情をした後、善意に溢れる微笑みを見せてくれた。得体の知れない旅人であるはずの私に対する屈託ない応対に、年甲斐もなくときめいてしまう。
 村に唯一という宿屋に落ちつく前に見た村人は、目の前の宿屋の女主人を含めて5人。一人目の少女のように椅子を頭に担いでいたのはそのうち4人。
 こうして今宿賃の交渉をしている相手の頭にある椅子は、帳場から動かない人間の頭に固定されてるわけであり、つまりその椅子はどこかに運んでいる途上のものではなく謂わば標準装備ということになりそうで、さすがに私も理由を尋ねざるを得なかった。
「席の予約は必要だろ?」と女主人はこともなげに言い、それが必要にして十分な説明であるかのごとくその話題は打ち切られ、「部屋の予約がない客はこの値段で譲れないよ。何にせよ予約は大切ってことさ」などと価格交渉のネタにされる始末だった。

 奮発して2泊することにした部屋は、なかなか快適だった。屋根裏の部屋だが天井が高くて狭苦しさはなく、何より破風の下に位置する小窓からの眺めが良い。越えてきたばかりの蛇背山脈を遠景に臨み、真下には扇型をした村の中心広場が広がる。
 すっかり傾いた陽が差す広場では、子どもたちが見たことのないルールのボール遊びをしている。いずれかの子を呼びに来た母親だろうか、苛立ち混じりの声を張り上げながら広場に入ってきた。その頭に椅子が載っているのをみて、そう言えば子どもたちは誰も椅子を担いでいないなと気づく。
 一人が連れて帰られると、あっさりと他の子どもたちも解散し、じきに広場に宵闇が落ちてきた。いつの間にか広場の奥にある石造りの建物(おそらくは庁舎)の門の前に篝火が焚かれ、広場の一部を帯のように照らし出して、横切る村人たちに影を与える。真横からの光がつくり出す影は長く伸びて、窓からこの部屋にまで入ってくる。私の背後の壁に映るのは奇妙に歪んだ4本の棒状の影だった。村人の頭上にある椅子の脚が、ここまで影を伸ばしてゆらゆらと壁に揺れているのだ。
 広場を行き交う村人たちは、椅子を担いでいないほうが稀で、私は彼らを観察して椅子の有り無しに法則性を見出そうとしていたが、遂に諦めた。空腹には勝てない。
 宿は夕食はやっていないということで、私は女主人が椅子を担ぎながら器用にそして丁寧に地図を書いて示してくれた食堂(なのか酒場なのか)に向かうことにした。

 ここまで話が通じないといっそ爽快でもある。
 鱒の類の魚に乾燥肉を巻いて揚げ焼きにした料理に舌鼓を打ちながら、私は店主であろう男とずっと話を続けていた。一向に厨房に戻ろうとしない店主に向ける妻(だろう、おそらく)の目が冷たかったが、旅人を珍しがっている気持ちにつけ込んで、私は彼を自分のテーブルに独占し続けた。どうせ他に客はいないのだ。
 しかし話せば話すほど分からない。
「なんで頭に椅子を括りつけてるのか」
「そうじゃないと落っこちるだろ」
「ではなくて、椅子を括りつける意味は」
「俺は両手で料理するからさ、椅子を手で支えてるわけにいかんだろ」
「いや、そもそも椅子を何故保持しているのか」
「そりゃ俺の椅子だからさ」
「頭に載せてなくても、せめて目の届く場所に置いておけば、誰も盗んだりしないだろう」
「いやそれじゃ俺の椅子かどうか分かんなくなるだろ。ーーあんたが今座ってる椅子な、そこは昨日は木樵のゲンが座ってた。うちに置いてある椅子は誰のものでもない。みんなの椅子なんだ。みんなの椅子と俺の椅子は違うだろ」
「特別な椅子なのか」
「これか(と頭を指差して)? いや、あんたが座ってるのと同じやつだよ。同じ時にまとめて仕入れた」
「あなたの椅子とは何なんだ」
「俺の椅子は俺の椅子、俺の席だよ」
「質問を変えよう。何故椅子を担いでる人とそうでない人がいるのか」
「それは席をとってるかどうかだろ? まだとってない人だって、そりゃあいるさ」
「その人たちは何か足りなくて席を得られないのか」
「? 言ってる意味がわからんが、席がある奴はあるし、ない奴はない。ない奴もそのうち席をとれることもあるし、ずっととれないこともあるかもな」
「最後に一つだけ訊かせてくれ。何故あなたたちは被ってる椅子に一度たりとも座らないんだ」
「まだ始まってないうちから席に着く奴があるかよ」
 皿もパン籠も陶器の瓶に入ったビールも空になり、腹は満ち足りたが、会話の内容は満足とは程遠かった。

 月が高くから夜道を照らし、手持ちのランプを消しても歩けるくらいだった。
 宿まで戻る近道と教わった複雑な路地の途中に、細長い三角形の広場があった。中央に質素な台座に載せられた神像があり、その周囲の10数本の蝋燭に火が灯されて、像の顔をむしろ凶々しく浮かび上がらせている。
 その像の近くに差し掛かったところで、老人が前方から現れた。例によって椅子を担いでいる。会釈をしてすれ違うと、背後でトンと椅子を下ろす音がした。振り向くと老人は満面の笑みを浮かべながら、わざとらしいほど緩慢な動作で椅子に腰を下ろした。
 その瞬間、広場の3つの角に繋がる路地から、黒装束の男たちが一斉に走り寄ってくる。私の後方から出現した連中は危うく私を突き飛ばすかの勢い。全部で6人。まっしぐらに老人を、老人の椅子を目指して走り、近付いたところで一斉に姿勢を低くして、掬い上げるように椅子ごと老人を持ち上げた。かと思うと瞬時に同じ方向へ走り出し、私が広場に入ってきた路地の方へと老人を連れ去った。
 あっという間の出来事だったが夢ではない。遠ざかる足音もちゃんと聴こえていた。
私はしばらくの間無人となった広場に佇み、老人の笑みを思い出していた。ふと寒さに気づいて我に返り、再び歩き始める。椅子を担ぎ続けている人達がそこに座ることの意味を朧げに理解したような心持ちで、宿の扉の門を叩いた。

 昼過ぎまで歩き詰めだったし、先ほどのビールもなかなか度が強かったのだが、妙に眼が冴えて眠れなかった。
 ベッドに横臥して、小窓から差し込む月明かりが床に照らし出す四角い舞台を眺めている。時々月の前を雲が横切るのか、舞台の照明が不安定になる瞬間があり、それが頭の中で掴めそうで掴めない解答のように感じられてもどかしさを誘う。何か重要なことを忘れているような焦燥が頭をもたげた時、部屋のドアがノックされた。
「お待たせしてしまいましたか?」と言って、私が起き上がるより早く自分でドアを開けて入ってきた、やはり椅子を頭に載せた小柄な人影。枕元の灯りに火を入れると、赤らむ光が照らしたのは昼に川沿いで見かけた少女だった。
 質問すべき言葉がうまく見つけられずベッドの上に座ったまま立ち上がれないでいると、少女が大義そうな動きで椅子を床に下ろし、私は思わず声を上げてしまう。
「ここに置いちゃダメでした?」
「いや、そうではなくて、椅子、下ろしてもいいんだな、って」
 少女は本当に可笑しそうに声を上げて笑い、
「椅子を持ったままじゃ私、できないですよ」
「できないって、何を」
 彼女は笑顔のまま近づいてベッドの私の横に腰を下ろし、ぴたりと身体を寄せて、
「そういうことを女の子にわざと言わせるのが好きな人なんですか」
 と艶を混ぜた声で囁くということは、彼女は娼婦なのだろう。
 半袖の先の露出した前腕部が私の太ももに触れ、その磁器のような滑らかさと冷たさに、欲情はいとも簡単に喚起される。

 昼間に見たあどけない笑顔は、閨中では経験豊富さを思わせる蟲惑的な笑みに上書きされ、寂しさと興奮とを同時に感じながら、私は客としてのマナーを守って楽しんだ。すなわち彼女の進め方に従って、達するべき時に達した。
 料金は宿代に含まれていると聞いて、なるほど随分と相場より高く感じたのはそのせいかと納得したが、私が「予約した」ことになっているのはどういうわけなのか、彼女に訊いても要領を得ない。宿の主人に(椅子のことを尋ねる流れで)彼女のことを見たと話したからか、それとも彼女に最初に会った時の会釈で予約は既に成立していたのか。
 正直なところ行為の間に料金について算段していた私は、少し得をした気分になり、また単純に彼女が私の好みであったこともあって、少しチップをはずむことにした。そのせいだと思いたくはないが(そのせいなのだろうが)、彼女はその後もベッドに同衾し続けて、私の話を興味深そうに聞いてくれた。
 私はそれが金銭によって生まれたサービスであると頭では理解しながらも、若く可愛らしい女性が的確な相槌と少し大仰な反応を返してくれることに完全に調子に乗ってしまう。修験道者たちとの水場争いや、黒い蜂蜜舐めとの死闘、賭け事、盗掘、翼竜での飛行など、随分と誇張しながら今までの旅を語り聞かせた。最後には「旅はいいよ、君も一度は旅に出るといい」などと説教じみた言葉を放つ始末だった。
 彼女が寒くなってきた、と床を出て服を着る段になってやっと、私はこの村の椅子についての疑問を思い出した。
「さっき、椅子に座った老人が、すぐさま黒い男たちに運ばれていくのを見たんだ」
 彼女はにこやかなまま表情を変えず、ただ頷いて私に続きを促した。
「ーーあれは、どこに連れていかれるのかな」
「山よ」
「それはつまり、死ぬということ?」
「死ぬかどうかは分からないけど、もう村には戻ってこないわ。でも、席があるんだから大丈夫よ、心配いらない」
 彼女は笑って私を安心させようとするが、もとより私は老人の心配などしていない。椅子に置いてあった服を順に身につけていく姿を眺めながら、私は椅子に座ることはやはり死或いは限りなくそれに近いものを意味していて、椅子を持つ者はいつでも自分の意志で結末を迎えられるのだと了解した。
 すると、服を着終えた彼女が何気なく椅子に座った。
 私は声にならない声を上げてしまう。
 彼女は今夜一番の大声で笑って、
「大丈夫よ。ほら、黒い男なんて来ない」
 座面の前部に両手をかけて、その脇から出した両脚をばたばたと振りながら子どもをあやす母親のような調子でそう言う。
 私はその姿に再び魅了されてしまう。

「私たちはね、この仕事を始める時にみんな、椅子をもらえるの」
「どうして?」
「準備完了ですよー、いつでも席はありますよー、もう何か別のできることを探さなくていいですよー、ってことかしら」
 それはつまり彼女を売春という業務に縛りつけるということだろうか。私は愚直なまでの憤りと哀しみとを感じて、よく言葉も吟味せずに
「そんなふうに人生を諦めなくても」
 と言ってしまった。
 最初に出会った時から、濃淡の差こそあれずっと笑みを絶やさなかった彼女がすっと真顔になった。笑わない彼女は今までになく美しかった。
「諦めてなんかいない。早く気づいただけよ。ここで準備を終えるんだ、ってね。あなたは旅に出ろと言ってくれた。ありがとう。でも大きなお世話です。私はここから動かない。それで構わないの。それより私はあなたのほうが心配だわ。さっき言ってたでしょ、旅の終わりも決めていないって。まだ何も準備できてないどころか、しないといけないこともわかってなさそうなんだもの」
 私はベッドから裸のままで立ち上がり、椅子に座る彼女の前で、灯が彼女の影を壁に投げかけているのを眺めていた。影は大きく色濃く揺らめきもせず、堂々と私を見下ろしていた。
 私は全てが恥ずかしくなった。浅はかな旅の自慢話、彼女を金で買ったこと、醜い裸体を晒し続けていること。
「“ここと今からは逃げられない”、私の好きな詩人の言葉よ」
 すっかり笑顔を取り戻した彼女は、去り際にそう言った。
 私は今からではもう得られそうにない覚悟について、考えていた。

 

 

inspired by “Los Caprichos” GOYA

尋隠者不遇

 そんじゃま、そーゆーことで、っつって出てったのが俺の中学の時の同級生と思われる男。思われる、いうんはつまり確証がないからであって、あいつがホンマに吉田くんやったんかを俺はまだ疑ってる。
 でももうミッションは始まってて、俺は失踪したあっくんを捜さんとあかんことになった。とはいえ中学以来会ってもいない過去の同級生を捜すなんて探偵でもない俺には手立てすらない話で、だいたいホンマに失踪したんかっていうんも怪しい。
「この県に来てるはずやから」と吉田くん(よっしん)を名乗る男は言ってたけど、田舎の県や言うても広いしアホみたく人が多いのは多分彼も分かってて、あん時の同級生でこの県にいてんのは俺だけやから一応頼みにきたというか、ここに住む人間に頼むことまでが自分のミッションであると決めてたみたい。肩の荷おりたわーって感じで帰っていった。
 そのしゃべり方はよっしんっぽいようで、大人っぽすぎるようで、でもそれが年相応な感じもして、だから俺も「よっしん」ではなく「吉田くん」とか微妙な呼び方したわけで、そもそも奴とも中学以来やし、しかもほぼ用件しか話さんかったから、確証もないけど、偽物がよっしんを名乗って俺を騙すメリットも思いつかん。
 そんな感じで納得はいかんままに、それでも俺は持ち前の責任感を発揮して重い使命をしかと受け止め、すぐに会社に電話して明日から行かない旨を告げた。もちろん引き止められるなどということもなく。
 貯金額を確認し、これならひと月はあっくん捜しに専念できそうやと見込む。その後は見つけられたにせよそうでないにせよ、死ぬかまた仕事するかになる。その二択は俺にとってはほぼ同じ意味。
 やるべきことがあり、何より期限がある。俺はこういう部活みたいなんが好きやわ。終わりが決まってないとしんどい。というわけで今NOW俺はめっちゃ生の充実を感じている。漲る力を発散させるために3曲ほど歌う。またアパートの掲示板に「放歌高吟を禁ず」と書かれるやろうが気にせえへん。俺の歌声を聴けるだけ幸せやと思わんといかんね、少なくとも芸術を理解するホモサピエンスならね。
 何から取り掛かるか。まずは飯だ。まずは俺自身を整える、ええね、我ながらできる男感がある。
 食べたいものが自分では分からん時はコンビニが教えてくれる、というわけで最寄りのコンビニで俺の心を動かした食物を手あたり次第に買い込む。船出は景気が良くないといかんしね。カネを惜しむつもりはないがレジで3千円を超えた時は少し声を上げてしまった。
 テンションは高いが食欲は普通で、買ってきたもののうちホットコーナーで買ったもの(アメリカンドッグとか)をまず平らげて、賞味期限の近いものから食っていくと一瞬で補給タイムは終了する。大量の食物がテーブルの上に残る。
 まあいい、まずは情報収集で逆に家から出ないというパターンも考えられる。3日、いや1週間は部屋にこもってネット上であっくんを捜すとするか。いずれにせよ1週間後にはこの部屋を追い出されるわけやし。

 無為に過ごした、とは言いたくないね。いろいろ調べたしね。スマホでね。まぁアダルトサイト見てた時間も長かったかもしれんけどね。でも地域掲示板とか見たりしたしね。成果はあがらんかったけども。
 そもそも今のあっくんの顔写真もないのに捜せるわけないやん。本名と出身中学、中学ん時住んでたマンション(号棟と階数までは覚えてる、俺もなかなかすごい)くらいしか情報ないし。
 SNSも見たね。初めてやったけどあの会員制のやつ、なんかうちの中学、俺の代の同窓生のコミュニティとかあるんよな。そこで聞いてみようかとも思ったけど、「お前誰やねん」って覚えられてなかったらキツいし遠慮しておいた。まぁそこにおったんは「いかにも」いうか、なんかクラスの真ん中の方におったなぁって奴らだけで、あんな奴らはどうせなんの情報も持ってへんやろう。
 滞納分の家賃はチャラになったわけやから、追い出された格好やとはいえ、俺は勝ったと言ってええと思う。Wi-Fi入ればどんなとこでも、っていう感じで決めた仮住まいはやたら咳き込んでこんる宿泊客ばかりの、ターミナル駅の一個隣の駅にあるビジホ。うん、たぶんギリビジホ。
 できる男である俺はこの住まい探しの間もあっくん捜しの手を緩めない。何故か電話に出ないよっしんを諦め、高橋に連絡、あっくんの最近(といっても5年前)の写真を送ってもらった。
 高橋があっくんの失踪にも、それを俺が解決させようとしてることにも完全に興味がなかったのは意外に感じたが(めっちゃ早く電話切るやん)、もともとアイツは冷淡というか、他人は他人、みたいなところのあるやつやった。どの高校受験するか最後まで言わんかったし。
 隣で乾燥機かけてるやたら肌の浅黒い男が、身体を内側から裏返しそうな勢いで咳しまくってるのを横目に、俺は洗濯機を回す。洗濯コーナー付きのホテルやったんはラッキーやと思う。いったん部屋に戻りつつ、あっくんの写真を画面上にまた出してみる。
 抱いているのはあっくんの子どもなんやろうか。中学の時のあっくんには似ても似つかない、気がする。あっくんはもうちょい目ぇ細くて面長やったんちゃうかな。思い出せんけど。だってここに写ってるあっくんと思われるオッサンは、俺の記憶をまるで刺激してくれへんから。
 つまり、知らんオッサンにしか見えへんから。
 流石の俺も知らんオッサンを写真だけで捜し当てることはでけへんやろう。ていうかモチベーションがなくなりました。旧友に会える思ってたし、もしかしたら会うことで俺の人生第二ステージにいけるかも思うてたのに。
 まぁ俺もやれるとこまでやったよ洗濯も終わったし、という清々しい気分で、残りの金使い尽くす勢いで居酒屋で呑んだろうとしてて、まだそんなに酔う前のことやった。
 結局誰やねんコイツ、って、もずく啜りながら知らんオッサン映ってるスマホ画面に独りツッコミしてたら、
「それ、中村先生やないですか」と見知らぬ青年。
 おお、あっくんの苗字は中村やで。
 と思って振り返ると、俺の後ろからスマホの画面覗き込む青年は瞬きが異様に頻繁で。もずくが酸っぱすぎて俺咽せて。

「自然に囲まれて癒されるぅ」なんてアホ声で言うてる場合、そいつがおるところはだいたい天然自然ではなくて、人の手が入った林の中の、しかも登山道やったりする。下手したら里山の畑に面した古民家の縁側でそんなセリフをほざいたりしやがる。一から十まで人の手が入ってるとこで何言うとんねん。
 ここはそんなニセ自然やない。ホンマもんの原生林。手付かずの自然。
 そういう自然は決して人間を癒したりはせぇへん。むしろいつ襲いかかってやろうかと手ぐすね引いてる感じ。
 いかな豪胆で知られた俺やとしても、いや知られてへんけど、まぁ一個一個の物音にビビってまうんはしゃあないと言えよう。
 まずね、道なんてないね。たまに道っぽくなってるとこ見ると熊とか通った跡なんちゃうんってむしろ不安になるね。木々に隠れて空はほとんど見えへんからずっと暗いし、地面は苔だらけで滑るし、嗅いだことない匂いがし続けてるし、空気に水分量が多すぎて肌が気持ち悪い。
 なんも癒されることない大自然の中を俺は迷わず進む。まぁ案内人の尻にくっついてってるだけやけどね。
 見た目は10歳にいってへんのちゃうかという童。中国風の、丼逆さにしたみたいな帽子かぶって作務衣きてる。身体は小さいのに頭がアンバランスにデカくて、さらに目が異様にデカくて、そんでもって瞬きをまるでせぇへん。この案内童子を紹介してくれた瞬き青年と足して二で割ればええのに。
 電車の終点からバス2本乗り継いだ終点、そこで初めて会うた時に「はじめまして」と挨拶した時から、まるで口をきけへん。時折指で行く方向を指し示すだけ。目印があるようにも思えん森の中を逡巡なく進んでいく。時たま「ケーッ」っていう変な鳴き声出すからビビる。獣を避けてんのか、森の住人へのなんかの挨拶なんか、説明ないから分からん。
 もうかれこれ2時間は歩いてると思う。いつ着くんか、どこに向かってんのか、とか、無視される質問をすんのはもうやめたけど、さすがにダルくなってきた。でも自分一人では引き返すこともでけへんという地獄。これはあっくんにたどり着いたらだいぶ返してもらうべき貸しが増えてるわ。
 しかしあっくんが仙人になってるとは思わんかった。いや仙人とか、俺も信じてないけど、瞬き青年の言うにはそんな感じらしい。その世界?では高名?やっちゅうことで、青年はしきりに恐縮してた。僕はまだその域には達せなくて…とか知らんわいう自分語りしてたなぁ。
 家族を捨てて仙境に達した、んやとして、それを家族の元に帰してあげたらそら喜ばれるやろ。あの不細工な子どもも嬉しいやろ。そんならお礼もしたくなるやろ。いうわけで俺の作戦としては子ども、これね。写真を見せて「この子が泣いてるで」ちゅうてね。まぁありきたりやけど、効果はあるやろ。
 というかいつになったら着くねん。
 案内童子はたまに鳴き声あげるだけで一切歩を緩めへんし、そこかしこの草むらはガサリゴソリと思い出したように音立てて俺をビビらすし、空気は気持ち悪いし、おんなじ景色ばっかで飽きるし、何より疲れた。
 でも、不思議と腹が減らへんことに気づく。
 青年にあっくんの手がかり聞いて、もう見つけた気になってあの後豪遊してもうてカネがなくなったから(青年は快く交通費貸してくれた)、今日は朝からなんも食うてへんのにな。

 1週間は経った。たぶん。ちゃんと数えてへんけど。
 携帯はもちろん通じへんし、いつ戻るか分からんあっくん待つ以外にすることないし、猪が!とか熊が!とかいうことも起これへんし、喉も渇かんし腹も減らんし、排便排尿もないし、寝る以外にすることもない。
 最初の日にここで突然ピタリと停まった案内童子は、そっからほとんど動かんようになった。停止後に一度だけ「ここで待つ」と言って、しゃべれたんかい!って思ったけど、そっからは喋らんし動かん。
 不思議と夜も寒くならんし、落ちた葉っぱがええ感じのクッションになって横になんのも気持ちええし、食うことの心配せんでええからカネの心配もないし、待てと言うならまぁ待ちましょか、と思ってたけど、さすがに飽きるで。
 腹が減らへんのと関係あるんか知らんけど、携帯の電池も減らへんことに気づいた。最初はいざあっくんに切り札の家族写真見せる時に電池切れてたらヤバい思って電源切ってたけど、これはしめたもんやとゲームで暇潰すことにした。
 通信せんでええゲームになるから大したもんはないんやけど、これに童子が興味もちよった。身振り手振りでルール教えたら器用に遊びよる。
 1か月(くらいや思う、たぶん)もした頃には、俺らは二人でオセロとか将棋で遊ぶのが一番の楽しみになった。携帯を渡し合いながらやるんやけど、やっぱ人間相手やと結構飽きへん。
 あとはたまに覚えてる歌を歌ってみたり(わりと童子が喜ぶように見える)。
 木の実使ってキャッチボールみたいなことしたり。
 そんなこんなでなんとなく時が過ぎて。
 俺の腰くらいまでしかなかった童子の背も伸びて俺の肩くらいまで届いて。
 だいぶ言葉も喋るようになって。
 もうどんくらい時が経ったんかもわからんようになって。
 もちろんあっくんのことはもはやどうでもよくなって。
 そんなやつおらんかったんちゃうかなとすら思ってて。
 自由っちゃ自由。無為っちゃ無為。
 生きなきゃがないから死にたいもない。
 未来に変化を望めないから過去も平板化して意味を失っていって。
 これが仙境やとしたらしょうもない境地やけど、そもそもしょうもないのが人生なわけで、まぁ腹減らんかったら人間こんなもんなんやろね。
 どんどん執着がなくなっていくから、
 俺の身体が俺のもんやと感じられんようになってくるから、
 それだけはちょっと怖くて。
 こうして携帯のメモアプリに文章書いたりしてます。
 どこにも届かへんことばを。

かくて神は身罷られスパイスの芳香だけが残る

 暇なので南インド風カレーでも作りながら、神の不在について考えてみましょうか。
 まず中華鍋を用意します。“爆”って感じの鉄の本格的なやつは「結局そんな火力、ウチにはないやん」ということで使わぬまま錆びつき、この前捨ててしまったので、形だけが中華鍋型のテフロン加工なんちゃって中華鍋です。
 いわゆる「神の死」について、利用機会がなく錆びついて捨てられた、つまり有用性が失われたから神はいなくなった、という考え方はあるのでしょうか。でも、有用性故に存在していたとしたら、それは共同体で共有し得る単なる社会常識や法であり、神とは呼べないと思います。そもそも代替可能な神ならば、わざわざ死を喧伝されたりしません。
 ちなみにこの鍋にはぴったり合う蓋があるのが素晴らしいのです。蓋は後になくてはならない役割を演じてくれます。鍋の真ん中に油を垂らします。大さじ3と言ってみるけど目分量です。ハンドメジャーってやつです。大さじとかって持つ角度によって結構入る量違いません? 表面張力もあるしね。試しに大さじに醤油入れて、こんくらい、と思ったとこからもうちょい入れてみてください。わりとまだ入ったりします。これから使う食材も「玉ねぎ1個」とか、重さや体積でなく個体差を無視した「個数」で規定されてたりしますし、塩なんて味を見ながら適量を探るわけです。つまりサラダ油45mlという値に絶対的な意味があるわけではない。
 「神の死」が指摘しているのは絶対的な権威がなくなったということでしょう。血縁なりカネなりイデオロギーなり、そのへんとも置き換えられるようなものがね。「神は死んだ!」なんてのは、私には全ての価値が相対的な世界で絶対的な神をむしろ希求する叫びのようにも聞こえたりもします。
 コンロに火をつける前にホールスパイスを入れます。マスタードシード、シナモンあたりかな。丸のままのスパイスは、食べる時にかじってしまってちょっと嫌な気持ちになったりするけど、特にカルダモンとかね、わーカルダモン噛んだわーってなるね、味もそうやけどちょっと噛み潰せてしまうとこがね、梅干しの種噛み砕いたみたいなね、でも入れないと美味しさが足りなくてもっと嫌な気持ちになるので入れます。局所的な不均衡を気にするより、全体の調和が大切です。
 「人類の進歩と調和」。なかなか大きく出ています。雄々しさがある。あの頃はまだ絶対的な何かを人類は共有できていたのかしらと思わせてくれます。どうなんでしょう。そうでもないのかな。でもまだあの時代には局所的なものだとしても神はいたんじゃないでしょうか。会社とか幸福とか家族とか中流とか、なんかそういうのが。
 スパイスにゆっくり熱を加えている間、玉ねぎ1個をできるだけ均等なみじん切りにしましょう。その方が焦げてしまう欠片が減ります。切ったら鍋に入れて強めの中火で、絶えずに混ぜながら炒めていきます。飴色の一歩手前まで炒めますが、弱火でじっくりなんていう必要はありません。必要なのは焦がさないことで、火は強い方が早く炒まります。時間をかけた方が美味いという思い込みから生まれた神話を信じる必要はありません。
 神が死んだというよりは、神話が崩壊したというほうが個人的にはしっくりきます。つまり何がしかの存在がなくなったのではなく、諸々の物語が機能しなくなったのだという考え方ですね。物語が機能してないのにもう一度オリンピックをやろうが万博をやろうがダメだと思うんですよね。ダメというか、思うような結果につながらないでしょう。
 さぁ火を弱めて、青唐辛子の斜め切り3本分、おろししょうがとおろしニンニクをそれぞれ大さじ1ずつ入れましょう。もちろん目分量で構いませんよ。それからトマトです。大きさに個体差がありますし、含有している水分量も違うので適当でいいのですが、だいたい2個分くらいです。ちなみに私は紙パックのカットトマトを使います。切らなくていいからラクだし、水分量も調節しやすいです。
 そんなラクをしてズルい、という気持ちはどこからくるのでしょう。そういった規範意識、モラルはフィクションでしか植え付けられないと思うんですよね。なぜ嘘をついたらダメなのか(絶対にバレない嘘なら良いのではないか)という問いに答えられずに、人は全ての嘘を見破る閻魔という存在を想像し、舌を抜くという物語を捏造します。神がどこから産み出されたかといえば、人間の頭の中からなわけで、つまりフィクションではあるので、それが死ぬということは、やはり物語が力を失ったということでしょう。
 ハネるので蓋をして(ここで蓋が登場します)しばらく火を入れ、トマトが煮崩れたらごく弱火にして今度はパウダースパイスです。ここは面倒くさがらずに一種ずつ入れてその度によく混ぜましょう。ターメリック、クミン、チリ。最後に塩も入れて同じように混ぜます。そうしてペーストができれば、ほぼカレーは完成しています。折り紙で言えば鶴の羽根と頭を折る前の、菱形の状態。鶴以外にもなる折り紙の基本形ですね。このペーストも、ここから入れる具材によって、何カレーにでもなります。
 こうした何にでもなるけど全ての元であるという根本、そういった万人が共有できる物語が失われたのが大きいと思いますね。ここからカレーは作れても、サバ味噌は作れない。でもカレーを食べたい日もあれば、サバ味噌を食べたい日もある。多様性の担保。それは神とは非常に相性の悪い概念だったんでしょう。
 今日は普通に鶏肉にしますか。じゃあ大きめの一口大に切った鶏もも肉をペーストに絡めるように炒めたら、タマリンドペースト大さじ2、チキンスープと同量のココナッツミルクを、鶏肉が全部沈むくらいの量を入れて一煮立ち、そっからは肉に火が通るまで煮るだけです。パクチーなんかを散らして、バスマティライスに合わせると本格的に見えますね。
 まぁ、そうは言いながらも私はこうして味わっているのが、カレーというもの自体なのか、自作の本格的に見える南インド風カレーという物語なのか分かりません。全く同じ構成物でも文脈によって味わいが変わるように、私たちの五感は信頼に値せず、物語に簡単に影響されます。個々人の中には物語は生きていて、そこから逃げる事はできないのではないでしょうか。その意味では神は死んだわけではなく、細かく分離しただけなのかもしれません。
 万人の心の中に、それぞれの神がいる。それは理想的な状態のようにも聞こえますけど。
 こうして一人でカレーを作って食べてその美味しさを誰と共有するでもなく皿を空にしていく。その孤独に人が耐えられるのであればね。

熱が散り切った夏

 海岸沿いに果てしなく延びている道を、老人と子どもが手をつないで歩いている。人二人がやっと並んで歩ける程度の幅のその舗装路はしかし、吹き寄せられた砂に覆われアスファルトが少しも見えなくなっている。
 背後の砂地に刻んできた足跡も瞬時に消し去ってしまいそうな強烈な海風が時折吹き付けると、二人は身体を縮こまらせてそれが過ぎ去るのを待つ。そしてまた、与えられた苦役を淡々とこなす罪人達のように歩き始める。
 海側には、腰ほどの高さの防潮堤があるが、波飛沫はしばしば簡単に乗り越えてきて、彼らの髪の毛や僅かに露出している肌にベタつく潮の感触を植え付けてゆく。
空は灰色で、海は荒れ、高く位置する太陽から弱々しい光が降り注ぐ、いつもと変わらぬ夏が来ていた。
 秋から春は寝ぐらから出ることを許されない人間たちが、ほんの短い間だけ弱い陽光の下を歩ける季節。
「おじいちゃん、あの大きなお花みたいなのは何?」
 陸側に道に沿って並び立つ白く巨大な物体を指して子どもが尋ねる。
「あれは風車といって、風を受けて回るように造られた昔の建物だ」
 しかしてんで勝手な方向を向いて無数に並び立つ風車は、一つたりとて微動だにしていない。風はそれらの間を空しく通り抜けてゆく。
「風があの細い花びらを回すと、彼らはそれを別の形の力に変えることができた」
 ふうん、と頷いた子どもはしかし、すでに興味を失ったようだ。靴を脱いで、中に入ってしまった砂を出す作業に熱中している。
老人は子どもが靴を履き直すのを待って再び彼の手を取り、この星がまだ熱を放っていた頃の残骸たちを横目に歩いてゆく。

 老人はその時代を知っている。
 人間がこの星の地表を覆い尽くすほど殖え、食い、遊び、励んでいた頃を。
 地球上のほとんどの場所で、一年中なんの装備もなく屋外での活動が許されていた頃を。
 その人間たちを養うため楽しませるために、膨大な力が必要とされていた時代を。
「知ってるかい。あの風車がつくった力は、貯めておくということができなかったんだ。だからつくった分だけその日のうちに使い切らないといけなかった。ママがたまに作る生ものを使ったご飯と一緒だ」
 老人は子どもが聞いてはいないことを知っていながら続ける。
「でも昔は、その力を使い切れたんだ。どころか足りないことさえあった」
 子どもは退屈して走り出す。老人はそれを目で追う。子どもの前に延びる道の先には、やはり人影などまるで見えない。

 子どもが転ぶ。
 少々怪我をしたかもしれないが、あの転びかたなら大した傷ではないだろう。老人は慌てず、緩慢な足取りで前進し、子どもとの距離を縮めてゆく。
 もし泣いていたら。面倒だからいつものように「海に投げ捨てる」と脅かすことにしよう。まだあの子は小さいから、それが一種の福音だということに気づいていない。ちゃんと死に怯えて大人しくなるだろう。

 老人は後方からの突風にあおられる。
 しばらくの間、身体を強張らせてやり過ごす。懐にしまっていた焼き石を布でくるんだものを取り出し、冷え切った頬に当てる。
 わずかに残っていた熱が、老人の滞りがちの血流に少しばかりの活力を与える。
老人は熱が有り余っていた頃を思う。
 人間の営為や、それを支えるための力が、最後には熱に変換されて散っていったあの頃。その放熱を抑制しようという無駄な取り組みにさえも熱を上げていたあの頃。

 子どもは起きあがろうとしない。
 おおかた地面に虫でも見つけて、その観察に熱中しているんだろう。さっきから身体を少しも動かさない。
 老人は思う。
 人類というものは、この星の春に地中から這い出してきた虫だ。暑い季節にもぞもぞと元気に動き回り、秋に多くは死に絶え、そして今、土に潜って冬をやり過ごそうとしている。
 どんどん冷たくなるこの星で次の冬こそは越せないのではないかという怯えと微かな期待を常に感じながら。

 そして曇天を仰ぎ、熱を失ったのはこの太陽ではなく、人類のほうだったのではないかという、郷愁がもたらす誤認に浸ってしまうのだった。

神の来訪


 ザリガニ獲りのシゲのところに神が来訪しました。村に神が来たのは4年ぶりです。シゲが言うには、いつものヤッチ沢に向かう途中のフブノのあたりで、突然茂みから姿を現したそうです。
 何度聞いても、神の姿についてのシゲの描写は要領を得ません。聞くたびに違うことを言っているのですが、そう指摘するとシゲは「俺は一貫して同じことを言ってる」とムキになります。ツノやキバがあったりなかったり、人型だったり獣のようだったり、形があったりオーラの塊だったり、聞いてるほうからすれば矛盾だらけで、わたしたちはいつも顔を見合わせてしまいます。ただ、同じ一日のうちであれば彼は同じように神の姿を表現していたように思います。
 というわけでその外見についてはよくわかりませんが、いずれにせよシゲは見た瞬間にそれが神だと確信したそうです。わたしたちもシゲが見間違いをしたとは思っていません。なぜなら今既にシゲは浮遊を始めているからです。

 邂逅から2週間が経って、シゲは普段は子どもの腰くらいの高さの位置に浮いています。だいたいはあぐらの姿勢で。たまに寝ていて風に流されている時などは、村人が地面に落としてやります。何故だか他人が触れると、浮遊する力は急に失われるようです。
 シゲ自身が歩きたい時は、意識的に丹田に力を入れると地面に降り立てるそうですが、それも日に日に難しくなってるとシゲは言います。確かにシゲは浮遊する高度を少しずつ上昇させているようです。
 その姿は、神様が天国へと引っ張りあげようとしている、というよりは、月の軌道が少しずつ地球から離れていくような、どちらかというと物理法則に似た散文的な状況に、わたしには見えました。

 4年前のナツの時、彼女は逆に地面に沈んでゆきました。沈むといっても足が土にめり込んでいくというわけではなく、接地している部分から、身体と地面が同化してゆくのです。
 なので彼女は神を見た場所、ハンバラの真ん中で動けなくなっていました。最初にナツを見つけた村人は、既にくるぶしのあたりまで彼女の足は「沈んで」いたと言います。
 動けないし、立ちっぱなしだしでナツは辛かったと思いますが、5人姉妹の長女らしい、責任感が強く気丈な子で、弱音を一切吐かずに、ご飯や水をもって来てくれる家族や友達に礼ばかり言っていました。
 ナツが完全に地中に消えるまで、ひと月かからなかったと思います。沈んでいくにつれて、彼女はどんどん晴れやかな表情になっていったのを覚えています。わたしはその様子を見て、彼女は地球に埋まるわけでも飲み込まれるわけでもなく、ただ彼女の形のまま地球を透過していくのだと感じました。彼女を構成する原子と地球のそれとが、ちょうどうまい具合に網目が合って、彼女は地球をすり抜けてゆくのだと。

 わたしはたぶん、沈み始めてからのナツと、一番たくさん話した村人だと思います。宵告げの鳥が啼いて皆が寝静まる頃、毎晩のようにハンバラを訪れ、夜通しナツと二人きりでいろいろな話をしました。
 不思議とナツは沈み始めてからは眠ることがありませんでした。そしてそれまでよりもずっと素直に思いを吐露してくれたように思います。
 彼女はこの村の暮らしに飽いていました。アマビを刈り取りニエの工場へ運び、朝夕のご飯の支度をして妹たちの世話をする。そして空いた時間に先祖が遺した書物を読む。
 書物を読むのは楽しかったそうで、彼女は無駄を省いてするべきことをどんどん効率化し、育ってきたすぐ下の妹もうまく使役し、空き時間を増やすことに熱中しました。そしてその効率化が飽和状態に達したとき、すべてが虚しくなって心が死んだと言います。

「心が死んで」からの彼女は、それまでになかった危うさが加わり、おそろしいほどの美しさを身体中から放出していて、わたしは正直それに酔っていました。わたしはなにかと理由をつけて彼女に近づき、話しかけました。村の男たちが皆そうしたように。
 そして彼女は神に出会いました。
 村の男たちは地面と同化してゆくナツへの興味を失っていったように思いますが、わたしは違いました。沈み始めてからのナツのことばが、ナツ自身の姿よりもっと輝いていたからです。ああ、わたしはナツのことばが好きだったのだ、と気づきました。そして夜ごとナツの元に通うようになったのです。
 歌うように自分のことを率直に語るナツのことばを、わたしはたまに質問を挟んだりしながら聴き続けました。うっかりすると自分のことも語りたくなる衝動を抑えるのには苦労しました。そんなことでこの美しい時間を無駄にするわけにはいきません。
 彼女はわたしには何の興味もなかったと思います。たぶん、鏡にしゃべるのと同じような気持ちでことばを紡いでいたのではないでしょうか。
 胸まで沈んでからは早かったです。その夜が明ける前に彼女は去りました。最後のことばは聞き取りづらかったのですが「おかげさまで」と言っていた気がします。彼女らしい、こんなわたしにさえも気を遣ってくれたことばだったのでしょうか。
 あるいは神へと投げかけたことばだったのか。

 1ヵ月経っても、シゲはまだ浮遊しています。
 妻に手を繋いでもらいながら仕事したり、不便そうではありますが相変わらずのお気楽ぶりを発揮して、わたしたちともよく酒を飲んでいます。大人の目の高さくらいまで上昇してしまっているので、迂闊に触ると落ちた時のダメージが大きいらしく、それには気をつけています。
 シゲは毎日のように神を見た時の話を得意げに聞かせています。最近は村の外からも聞きにくる人間がいるようです。相変わらず神の描写は日によって違いますが、語り口自体はどんどん上達し、滑らかな口ぶりで自らに起きた奇跡を話し聞かせています。もはやそれは、一つの完成した見せ物のようでした。
 わたしは正直、ナツの変容に比べてシゲのそれは醜いと感じていましたが、もちろんそれを口にすることはありませんでした。
 ナツには意志の力があり、神の助けを少しだけ借りてこの世界から脱け出したわけですが、シゲは執着はあれど意志はまるでなく、神から与えられた機会をうまく活かせていないように見えたのです。でも、それを指摘して何の意味があるでしょうか。

 シゲの話を聞きにきた旅人を、ちょっとした成り行きでうちに泊めることになりました。
 村では皆がそうするように、ありあわせの酒と肴で接待をしました。とても話しやすい若者で、わたしはうっかり酔ってしまい、思わず素直に今のシゲへの思いを語ってしまいました。
「ある町のしきたりを、別の町に持ち込んではいけません。「町」を「国」や「横丁」、あるいは「家族」「個人」に置き換えても同じことです。それだけが唯一にして絶対の、旅人が守るべきルールなのです。」
と彼は言いました。
 わたしは彼のことばに直感的な反発を感じましたが、それは的確な指摘であることの証左にすぎません。わたしは旅人ではありませんが、確かにシゲに違和感を感じても、それを表明する権利などはない、それはその通りです。
 わたしは口が滑ったことを素直に認め、不快な思いをさせたなら謝罪したいと言いましたが、彼は意外なことばを続けました。
「あなたが旅人になろうとするのであれば、あなた自身を空っぽにしなければなりません。執着をことばとして吐き出してしまうといいでしょう。」

 わたしは旅人になろうと考えたことはありません。今でもそうは考えていません。
でも彼のことばはストンと胃の腑に落ちました。
 わたしがわたしの執着をすべて外部化できたら、わたしもナツやシゲのようになれるのかもしれない。

 そうしてわたしはことばを紡ぎ始めました。
 そうすることで、やがてわたし自身をすっかり空っぽの状態にできるのでしょうか。
 まだわたしの中にはいろいろなものが居ます。ナツも居ます。
 シゲはまだ大人の手の届く高さにいます。その高さで安定してしまったようにも見えます。
 村にはまた西風が吹き始め、もう見飽きた春が訪れようとしています。
 わたしは果ての見えない作業を続けています。
 神の来訪を受けるために。
 あるいは、神としてどこかへ来訪するために。

再適化 reoptimize

 ああ、ずいぶん遅い時間まで起きてしまいました。
 空には月が出ているかもしれません。
 いや、今日は夜半から雨の予報だったかも。
 いずれにせよ私はベランダへ通じるガラス戸を開けたりはしません。花粉が入ってきますからね。
 だから月が出ているかどうか確かめる術はありません。正確にはネットでなんらかのライブカメラとかを探せば可能なのかな。まぁしませんが。面倒くさいから。

 今私は二つのことを言った気がします。
 ひとつは花粉症によって私の行動の選択肢が奪われているということ。つまり不可抗力による可能性の喪失。
 もうひとつは実際に可能かもしれないライブカメラ検索をしないという不行動の選択。つまり自らの意志による可能性の放棄。
 面倒だからやらないということに関して、それをも不可抗力であるという考え方もありましょうが、それはいったん措かせてください。

 月は見えません。
 私の目にはベランダへのガラス戸、も見えません。カーテンで覆われていますから。
 さて、どこから話しましょうか。

 私は今、ちょうど空っぽで、話したいことは何一つありません。
 ですから、あなたから訊いてくださったりするとありがたいです。
 何故空っぽか、ですか。
 それは私がここしばらくの間、ずっと同じことだけを考え、ずっとそのことについてだけ口にしてきたからです。
 そしてそれは終わりました。

 同じことを考え続けるというのは、実はとても難しいのです。脳の同じ部分を使うからか、擦り切れていくレコードのように、考えるための力は疲弊して精度が落ちていきますし、
記憶の劣化と改変によって、考えるための材料自体の鮮度も劣化していく一方でした。
 最初のうちは、この迷宮から出ない、と決めた私でしたが、もはや迷宮の壁すらも曖昧にしか感知できず、今や迷宮の内と外の区別もつかないような状態です。

 また、ずっと同じことを言い続ける、というのも難しい。
 単純に飽きますし、自分の言葉が自分の記憶を侵食して改変したり変に固定化したりするのも気持ち悪いです。
 私は詩人ではありませんので、同じことを言い続ける場合は、文字通りの意味で「同じことを言う」ことになってしまいます。

 詩人だったらよかったのにとは本当に思います。
 お金持ちであることを誰にも知られていないお金持ちか、或いは詩人になりたかった。

 なりたかったもの、ですか。
 幼い頃は小さな世界の主になりたかったと思います。それをこの社会の言葉に翻訳して「なんでも屋さんの店主」などと言っていましたが、私は商売がしたかったわけではありません。閉じられた空間を自分の好きなものだけで満たし、そこにずっと居続けたかっただけです。客なんか来ないのが理想です。
 なりたいものを職業に翻訳しないといけない時点で、歪みは始まってしまっています。

 ロールプレイングゲームで、演じる役割の種別を「職業」と言うのは何故でしょうか。“class”を「職業」と最初に訳出したやつが悪いのでしょうか。新和か? エルフが「職業」かよって話ですよ。
 夢という言葉もありますが、たとえば「ロックスターになりたい」という夢って、たくさんの人の前で演奏するとか、たくさんの人に音楽が聴かれることであって、「それで暮らしていける」ことじゃなかったはずではないでしょうか。

 「夢は見たほうがいいよ、叶わないけど。」という賢明なる先人の言葉があります。
 けだし名言、と思う一方で、それも一種のエネルギーを持つ側の人の、
 つまり強者の論理だよなと感じないでもない昨今です。
 つまり、夢を見る、追いかけるという運動それ自体が美しく、人生を豊かにするのだということなのかと思いますが、今やそのスタンスをとるために立ち上がるのも難しい。
 そんなわけでこうして部屋で膝を抱えているわけです。

 そうですね、自己憐憫です。
 というか最近の私は自分を哀れむことだけをずうっと続けてきたようです。そのかわり、ほんの少しだけ、他人を哀れむようにもしていたと思います。自分への哀れみの2、3パーセントくらいのボリューム感で。
 それも広い意味での自己憐憫なんだよというのも正論ですねぇ。
 世界を哀れむことで世界が本来的にもっている哀しみと、自分の哀しみを同一視しようとしていたのかもしれませんね。

 空っぽの私が空っぽの世界とぴったりと重なるような、皆既日食のような瞬間が訪れてくれないかと、今はそんなふうに思っています。

 

 カーテン、開けましょうか。
 いや、桜が散ってるかもなぁと思って。
 ーー雨は降ってませんねぇ。よく見えないですけど。月もこの角度からだと見えないと思いますよ。外に出ないと。
 桜は…、なんかもういいです。結局このベランダへのサッシの窓という画角内に映し出すことができる美しさには限界があるんですよ。
 いや、限界を自分が決めちゃってるだけなのかな、もしかして。

 「私に内在する無限の可能性…!」みたいな話をしたいわけではないですよ、念のため。
 そうじゃなくて、私の能力の不足から見出せていない美があるのではないかという可能性の話です。

 やめましょう。美についての話は苦手なんでした。
 なんというか、コンプレックスがあるんですよ。
 それについてはうまく話せそうならいずれ話させてください。

 ええと……職業の話でしたっけ。
 これについても、ある少年が「将来就きたいのはラクして儲かってカッコいい仕事」だと素晴らしくキレのいい言葉を残していましたね。最小限の苦労で最大限の収入、というのは当然として、肝は「カッコいい」ってとこです。
 これをどう捉えるのか。
 自己実現できる仕事? 少なくとも私はそうは考えません。
 自己実現というのは、この社会において「自己を実現」するわけでしょうから、そもそもこの世界が正当なものだと思えない私にとっては無縁な言葉というか、その感覚の一端すらも理解できないものなのです。

 私は「カッコいい」というのはイコール「カッコ悪くない」、つまり恥ずべきところがない、或いは少ない仕事のことだと考えています。
 人を騙したり陥れたり出し抜いたり、そういう卑劣な行為を伴わない仕事。また、嘘や誤魔化しやお追従が必ずしも必要とされない組織。それが実現されていれば十分だと思うのです。実際はそれこそが難しいのでしょうけど。
 なるべく自分の倫理観に悖らない範囲で口に糊したいものです。私が労働について思うのはそれだけです。

 世界が正当だと感じられないなら、その世界を正当なものへと変革することが自己実現になるのではないか。
 それはその通りかもしれません。
 革命?いやいや、中学程度の歴史教育でそんな運動に意味がないことは解ります。
中学生の頃は、世界的な宗教を立ち上げればよいのかなと思ったりしてましたね。無茶苦茶ですが、筋はそんなに悪くなかったんじゃないかと今でも思います。
 私の理想とする世界、私の自己とやらが実現された世界は、誰一人偉そうにせず、つまり権力という権力が存在しない無政府状態で、なおかつ誰も卑劣なことを実行しない人を出し抜こうとしない場所です。
 一瞬の無政府状態ならそれこそ革命で実現できる可能性もあるのでしょうが、永続はさせられない。権力は必ず生まれるし、卑怯な行いも必ず為されます。これはもう倫理というフィクションで縛るしかない。だから宗教、というわけです。
 まぁその能力も根気もなかったので早々に諦めましたが。

 そもそもこの世界って正当なものだと感じられます?
 デザインがかなり良くないというか、ゲームバランスが最悪というか、選択肢は実はほとんどないし、不義や無道やチートはまかり通るし、私には欠点しか見えません。

 世界を変えるにはある一点を変えるだけでいい。
 そんな言葉を実は私は信じています。
 世界には秘匿されたある致命的な弱点があって、そこを突けば、二重にして膨らませていた色の違う風船の外側だけをパンと割る手品のように、一瞬で世界の様相が一変する、そんなことがあり得るかもしれないと。
 でもそのためには世界を知らなくてはいけませんよね。少なくとも、ある程度は。

 大学に入るまでは「歴史」を学べば世界を総体的に知れるかと考えてました。
でもいざ学ぼうとすると、どうやら一部地域の一部の時代を学ぶだけで人生を全て消費しそうだと分かった。
 で、じゃあ言語学を学ぼう、と。この観点からなら包括的に世界を理解できそうだという素人考えです。世界の秘密を手っ取り早く見つけたかったんです。
 まぁもちろん挫折して、というか言語学自体に入門すらすることもなく、大学という場所のあまりの「社会性の高さ」に辟易して逃げ出すように就職したわけですが。
 なんでしょうね、あの感じ。いわゆる実社会からは隔絶されてるはずなのに、どの社会よりも悪い意味で「社会的」な大学(の研究室)という場所は。悪口や党派作りや足の引っ張り合いや追従や反目や裏切りや糞みたいな男女関係やなんやかんや…。

 就職した人間はだいたいそうなるように、私も消費社会のまっとうな一員となり、時間と精神を売ってカネと消耗を与えられ、その消耗に蓋をするためにカネを使いました。
 モノばかり買わされる人生のできあがりです。
 買ったモノで「自分」というものが形作られてるような気さえしてたんですから、呑気なものです。

 ただ現実は、そうして生きているだけで知らないことがどんどん増えてゆきます。
 日々、知ることの数万数億倍くらい知らないことが立ち起こっていくので、その差の開き方は絶望的です。
 世界を全部知れると思ってたのか?と訊かれたら、いや、そんな、まさか、はは、って頭を掻いてもちろん否定しますけど、
 でも本当は心のどこかでそう思ってたのかもしれません。少なくとも自分が興味あること(ありそうなこと、今後興味をもちそうなこと)については全部。
 冷静に考えれば無理に決まってるんですが、その不可能性に実のところしっかりと気づけていなかったような気がします。

 読めば面白そうな本、聴けば楽しそうな芸人のラジオ、観れば心が動きそうな映像作品…。
 負債だけが溜まっていって、取り返せそうにありません。
 私は不渡りが出たことを急に聞かされた零細企業の社長のように、ただ呆然としています。
 売れない在庫の前で佇む社長の絶望と、読み切れない本棚の前で佇む私の絶望は似ているのではないでしょうか。

 こんなことでは「世界」を知ることなんてできません。

 そんなふうに絶望感を味わっていたところで、ちょうど私はある大きな喪失を味わいまして(それで同じことばかり考える迷宮に住みついたりしてたんですが)、落ち込んだ人間が皆そうするように、私もかなり久しぶりに自分を観察する時間を過ごしました。
 内省、なんて高尚なものではなく、さっきも申し上げたように、単に自分を憐れんでいただけですが。

 それで気づいたことがあります。
 そもそも世界を知る前に、実現すべき自己、つまり自分というものが、どんな形をしてどんな方向へどんな速度で移動するどんなエネルギーなのか、それもまるで分かってないんじゃないか。
 まず自分の輪郭をなぞる線を引くところからが、その外側、つまり世界を知るスタート地点なのではないか。

 そうして私は言葉を紡ぎ始めたのです。

 

 静かな夜ですね、
 と言いたいところですが、耳を澄ますと電子機器の音や通気口からの換気音が聞こえます。

 全く何も聞こえない状態がないように、全く何も考えていない状態になれたことがありません。子どもの頃からそれを当たり前のこととして受け入れてきていましたが、どうやらみんながみんな、そういうわけでもなさそうですね。
 誰かが言っていた言葉で、自分の性質を表すのにピッタリきた言葉があるのですが、私は「常に気が散っている」人間です。
 幼い頃は姉と子供部屋で遊びながら、居間でしている両親の会話に突如割って入ったりして驚かれ「(10人の話をいっぺんに聞けたという)聖徳太子みたいやなぁ」などと言われて、自分が何かの特別な能力をもつ人間かのように勘違いしたりもしていましたが、何のことはない、単純に集中力が無いのです。あったとしてもごく短い時間しか続かない。

 耳寂しいから音楽でもかけましょうか。
 ああ、これにしますか。いいですけど、すぐ終わっちゃいますよ。
 このCDは2枚組なんですが、2枚合わせても普通のアルバムと収録時間は同じくらいです。1時間弱くらい。なんでわざわざ2枚に分けてるかっていうと、レコードを意識してるんですね。レコードは、A面を聞いたらB面に裏返すという作業がある。その手間をかけさせたい。
 単なるアナログへの郷愁だけじゃなくて、「人間の集中力はそもそも30分程度しかもたない」というデータだか思い込みだかに基づいてそうしていたような気がします。曖昧ですが。
 その話を当時高校生だった私は福音のように、いやそれは言い過ぎですね、「ちょうどいい言い訳を得た」くらいの感じで受けとりました。
 でも周りを見ても、みんな30分以上集中力が持続しているように見えるんですよね。

 いい曲ですねぇ。このボーカルの方は若くして亡くなってしまったんですよ。
 残念か、と問われたらとりあえず「はい」とは答えますが、ホントのところはそれほどでもないかもしれません。冷たいですね。
 いや、大好きなんですよ。この人の音楽は。
 でもバンド時代のアルバムが7枚、ソロになっても4枚、その他のユニットで出したアルバムなんかもあって、「これだけ有れば十分」という気持ちもどこかにあるんですよね。
 もちろん今彼が生きていて奏でたはずの音を聴いていないからそんなことが言えるのかもしれません。
 でもどうなんでしょう。
 一人の人間が一つの才能から享受できる悦びの量って、最大値が決まっている気がしませんか?

 集中力の話でしたね。
 今のくだりでもお分かりのように、私の話はあっちへ行ったりこっちへ行ったりとふらふらし通しです。なんか、思ったらそれをすぐに口にしないと、という強迫観念があったりもするんですよね。ああ、でもそもそも集中力があれば、別のことを考えたりすらもしないわけか。
 だからかどうかは自分でもわからないのですが、私は言葉を紡ぎ始めたものの、しばらく書いていると、その話を収束させたくて仕方なくなるんです。
 飲食店にいて食べ終わったら長居できない感覚に似ています。ええ、喫茶店でもそうですね。客の長居がある程度想定されているお店でも、私は追い立てられるような気持ちで店を出るのが常です。
 そんなふうに、ずっとこの話を書いていられない、となって、尻切れトンボだろうが辻褄が合ってなかろうが投げっぱなしエンドだろうが、とにかく終止符を打ちたくなる。

 飽きる、というのともちょっと違っていて、腰を据えられないというか、子どもが一箇所に留まっていられないのに似た気持ちなんですが、うーん、伝わりにくいですかね。
 そもそも集中力がないので、作業としての「書くこと」も長くは続けられないんです。
 長い文章への憧れはあります。
 結局なんか一つでいい気がするんですよね。自分の魂のかたちを知るための文章なんて。というかそういう形の方がわかりやすいし美しい気がしませんか。
 でも、途中で息切れしないよう、ある程度しっかりプロットを立てて書き始めると、それを消化するだけになって、書くほどに「自分」から遠ざかっていく気がしますし、かといってどこに到達するかわからないものをずっと書いていく忍耐力もなく。

 結局ずっと断片のようなものを綴っていました。
 それが自分のかたちを知るという目的に向かって前進しているのかどうかはわかりません。

 ええ、これで終わりです。
 5曲で終わりですね。もう一枚もかけますか? こっちは6曲で、5曲目は私のお気に入りです。
 気に入った曲があると何回も聴いてしまって、結局早く飽きてしまうことってないですか? 私が少し偏執的なんですかね。
 集中力はないのに執着はあるという面倒な人間なので。

 そうなんです。
 そして執着という観点から見ると、私がずっと綴っていた言葉は、結局一つのことしか言っていなかったのでした。
 「私は失った」
 ということを。

 同じことばかりを言うのには限界があるということは、先ほど言いましたね。だから私は行き詰まっていて、こうしてある種のリハビリのように、頭に巡る言葉をできるだけ吟味も逡巡もせずに吐き出す作業をしているのです。
 そんなことに付き合わせて申し訳ありません。横になって眠ってもらっても、帰っていただいてももちろん構いません。繋ぎ止めるような価値のあるものは、ここには何一つありません。
 あ、酒はあります。いい酒は揃っていますよ。私は最近まるで飲まなくなったので、ワインはだぶつき気味ですし、ウイスキーは趣味でいろいろ揃えています。

 お、この曲ですよ。私のお気に入り。
 17という曲名は年齢ですね。17歳というのは特別な年齢な気がします。そういう歌詞を聴き過ぎただけかもしれませんが。
 好きな曲なんですが、聴いてるうちに集中が途切れてしまうんですよね。いつの間にか曲が終わってる。ほら、こんなふうに。聴き過ぎたんでしょうか。私はこの曲を消費し尽くしてしまったんでしょうか。どうしたら最初の感動を何度でも追体験できるのでしょうか。
 どうしたら、そんなふうに時を経ても色褪せない言葉を紡げるのでしょうか。

 

 少し空が明るくなってきたでしょうか。
 いや、まだですね。まだ4時か。
 朝が来ると何かが始まるというより、終わってしまう、使い尽くしてしまう、という感じがしませんか。

 「ずっと夜だったらいいのにね」ってタイトルの小説ありましたよね。いや、まるで読んだことはないです。読んだことはないけど、タイトルはなぜか頭にこびりついている、そういうことってないですか。
 気になって今ググってみたら、なんか似た別の言葉をタイトルに冠した楽曲ばかり候補にあがりますね。追加で「小説」と入れてやっと候補に上がります。この種の先回りした親切さをAIが持ちだすことって、一種の暴力だと感じるんですが、どうでしょう。そうでもないですか?
 ロボット三原則、でしたっけ、「人間を傷つけない」的なやつ。傷つける、の定義がはっきりしてない気がするんですよね。良かれと思って、結果求めているものから遠ざける、というのも一種の機会の毀損なわけですから、それによって人間は不利益を被ってると思いますが。
 考えすぎでしょうか。
 ちなみに私がこのタイトルから想起するのは全く別の小説です。自分そっくりの異性と恋愛した主人公が「夜の住人」になってしまうという話。そして、このすっ飛ばし過ぎの紹介文では絶対に想像できないような話です。

 そんなふうに、私の中には“色褪せない言葉”というものはあります。消費し尽くして、ついに自分の一部になってしまっているような言葉。改めて読み返すと「ああ、私はこの言葉からできているんだ」と種明かしされたような気分を味わえる言葉。
 でもそれは、私にとってのごく個人的な色褪せなさであって、普遍的なものではない。
 普遍に届きたいとは思います。でも、地域や時代を超えて、いや超えなくても、万人に響いてその一部となるような言葉、そんなもの具体例すら見たことがありませんから想像もつきません。
 私の言葉は誰かの一部になって、その人の中では時を経ても色褪せない、一種の永遠に届くことはできるでしょうか。私の知る人でなくても、いや今生きている人でなくてもいい。もちろん時代を超えれば超えるほど、コンテクストも共有できず、より言葉は伝わりにくくなっていくのでしょうけれど。

 まずは未来の自分に宛てるように言葉を紡いでいます。
 そのやり方が正しいと確信しているというより、その形でしかできないからだと思います。

 薄い明かりが部屋の中にも充満してきちゃいましたね。
 朝のようです。
 そろそろ休みましょうか。
 そう、やっぱり我慢できなくなっちゃうんですね。区切りをつけたくなってしまう。
 その意味では、毎日陽が昇り陽が沈むことには大きな意味があるような気もします。

 ありがとうございました。
 こちらはこちらで、こちらのやり方を続けていこうと思います。
 そちらもどうか、健やかで。

 

 

 



inspiered by 『電話男』(小林恭二

月光密造のクーデターテープ

 慣れてくれば月灯りだけでも十分に歩いていける。それに今日は満月だ。僕が持っているなかで一番頑丈な靴を履いてきたし、ずっと歩いても暑すぎないくらいの重ね着、頭にはタータンチェックのハンチング、完璧だ。
 立ち止まって空を見上げる。あの子も月を見ているだろうから月にはあの子の顔が映っていて、あの子が見上げている月には僕の顔が映っているのだ。だから怖くないし、不安なんて何一つない。
 僕は背中のリュックを後ろ手に触って、その中でガチャガチャと鳴っている瓶たちを大人しくさせようとする。丈夫だから割れはしないけど、静かな夜にちょっとうるさい。
 全部で8本、僕のぶんは7本。14年と半年生きてきた僕のすべてがここに詰められている。これが多いのか少ないのか分からないけれど、これ以上入れるものはもうないと思ってる。
 月がゆっくりと天頂に近づいている。僕は汗をかかない程度に少し歩を速める。一週間前にやったリハーサルが完璧だったから、もうすぐ森に入るけど、道に迷う心配はない。この前と違っているのは、空気が少しだけ冷たくなったこと、虫の声が少し小さくなってることと、あの子が隣にいないことだけだ。

「湖の底に、深く深く沈めるの」とあの子が言った時、夏の終わりのあの夜、僕は一も二もなく賛成した。そこからは準備で忙しかった。満月が天頂近くにくるこの日を決行の日と決めたから、そこから逆算して3カ月ちょっとしか時間がなかった。
 僕はずっと集めていたフレーズを結晶化させて一つずつ瓶に詰めていった。今まで触れてきた詩の中から特に気に入った言葉たち。
 まず目をゆっくりと閉じて、顔の前で、決まった順番で両手の指を組んでゆく。順番はぜったい間違えないように。まじないの言葉を唱えた後、目を開けて指に息をそっと吹きかけ、フレーズを正確に口にする。両方の手のひらの間に砂がこぼれ落ちてくるような感覚があって、それを下に落とさないようゆっくりと手を開くと、小さなきらめく結晶ができている。これで完成。
 僕はたくさん詩を読んできたし、詩人のお話を聴いてきたし、歌にも毎日のように触れてきた。だからこんなふうに残したいフレーズはたくさんあって、瓶はどんどんいっぱいになっていった。
 あの子は今まで集めた写真を結晶化すると言って、自分が撮ったものはもちろん、本や雑誌やその切り抜きや、何かのパンフレットなんかをどっさり集めてきた。それを一つ一つ吟味するので、びっくりするほど時間がかかる。そうやってじっくり選んで結晶にするのはほんの一部で、傍目にはあの子が昔のアルバムを見て懐かしんでいるだけの人に見えた。
 そうして僕が7本めの瓶をいっぱいにしかけていた頃に、あの子はやっと1本の瓶を満杯にした。

「最後の瓶に少し空きがあるなら、私たちの言葉も残そうよ」とあの子は言った。正直、厳選されたフレーズの中に異物が混じってしまうようで、僕は乗り気じゃなかったけど、あの子は珍しく譲らなかった。
 あの子は写真を結晶にできるけど、僕にはそれはできない。同じようにあの子は言葉を結晶にできない。だからあの子の言葉も僕が結晶化することになる。
改めて残す言葉、と言われても何も思いつかないなと思っていたら、あの子がこう言った。
「私たちも、みんなも、この寮も森も全部なくなるくらい時間が経って、この瓶が見つかるの。それを開封してくれる誰かへの言葉にしよう」

 僕たちは普通種(オーディナリー)と違って、こどもをつくることができない。その機能がない。そのかわり、なのかはわからないけど、結晶をつくることができる。
でもそのちからも遅くても20歳になるまでに消えてしまう。
 ちからが消えたら僕たちは街へと”出荷”されて、普通種の人のところへ行くことになる。誰か、僕たちのことを欲しがっている人のところで、愛されて一生優雅に暮らすのだ。
 普通種の人たちは、こどもをつくることができるけれど、最近はあまり自分たちのこどもをつくらないらしい。
 僕も彼らのセックスについては知識として知ってるけど、確かにあれは流行らないと思う。お互いバカみたいな格好をしててダサい。僕ならあんな格好でへこへこ腰を動かしたくないし、好きな人にあんなポーズをさせたくない。
 だから、普通種の世界でもセックスは廃れたんだろうと思う。
 よくは知らないのだけれど、僕は普通種のことは嫌いじゃない。自由がなくなる、って出荷を嫌がる仲間もいるけど、愛されるのなら悪くないと思う。それに何より、あんなに美しい言葉を残したりする人たちに、興味があった。
 だから僕はいつ出荷の日がきても大丈夫だった。そう思っていた。あの子のほうが先に出荷されるとは思わなかったけど。

 背中の瓶の音や、ハイカットの靴が踏み鳴らす落ち葉の音を、まるきりかき消すようにして木々がザアザアと鳴っている。森に入ったら風が急に強くなったのだ。
 頭上の葉が月明かりを遮るので、友達から貰った灯りの結晶をポケットから取り出す。小瓶に入ったそれを手のひらの上に出すと、すぐにあたたかな光を放ち出す。手づくりの鎖をつけてくれていて、首にかけられるのがありがたい。
 一週間前にあの子と一緒に木に括りつけたリボンの目印を頼りに、森の奥へ向かう。あの子がいなくても、段取りはそんなに変わらない。もし今夜隣にいても、いつもみたいに静かに微笑んでいるだけで、実際の作業はほとんど僕がしてたことだろう。
 月が隠れると、あの子が遠くなるような気がして、ほんのちょっとだけ寂しさを感じてしまう。そんな時は瓶が詰まったリュックを両手で下から支えて、その重さをしっかりと感じるようにする。これは二人分。二人の共同作業なんだ。

 39本目のリボンが結えられた木の横を抜ける頃には風は止んでいる。
 僕も音を立ててはいけない気がして、歩を緩めて静かに進む。
 急に空と足元の両方から明るくなる。
 湖に出たのだ。
 月はまさに天頂に届こうとしていて、真下の湖面はその光を存分に反射している。ほんの少しの波音さえも聴こえない。水面はどこまでも滑らかで、時間が止まってしまっているようだった。岩陰に隠しておいた舟をそっと湖の淵へと滑らせると、波紋は静かに、どこまでも遠く広がっていった。

 湖の中央まで漕ぎ出て、まずはアンカーを下ろす。
 アンカーからのロープの張りを確認して、リュックから瓶を一本ずつ丁寧に取り出す。瓶はもう一本のロープで繋いでおいた。一本ごとの間隔はちょうど親指から小指を開いた距離のふたつ分、間違っても水底で瓶が離れ離れにならないように、きつく縛りつけておいた。
 ロープの一番先には彼女の写真が詰まった瓶、一番手前は僕たち二人の言葉も入った瓶。
 ロープには浮きはつけない。沈めたらそのまま。「沈めたら、すぐに忘れなくちゃ」そうあの子は言っていた。

 沈める前に瓶を舟の上に並べて、仮どめしておいた栓を開ける。
 真っ直ぐ上を向いている瓶の口に、天頂からの月光が降り注ぐ。
 淡く黄色みがかった光の粒子は、垂直の軌跡を描きながら静かに落ちてきて、瓶の中にも入っていく。瓶の中で月光はしずくのようになって、結晶と結晶の隙間を満たしていく。注意深く見ないとわからないほど、ゆっくりと。
 僕は舟の上に仰向けになって、月光のシャワーを浴びながら、同じように月を見ているはずのあの子に合図を送る。「順調だよ」
 きっとあの子もこれを見て合図を返してくれている。「了解です」。それは目で見ることはできないけど、あの子は街のどこかの普通種の家の窓から、月を見上げて合図してくれている。必ず。約束したわけじゃないけど、計画の日はずっと前から決めていたし、日にちを忘れてしまったとしても、月が天頂にくる晩は今夜しかないんだから。

 月光が瓶の口から溢れ出し、僕は一本ずつ栓を閉じ始める。今度は仮どめと違って、最後に蝋で封をする。
 最後の8本目に栓をしようとした時、月光を流し込みすぎてしまったのか、一つの結晶が瓶からこぼれ出してしまった。
 最後の瓶の最後の方に入っていた言葉だから、僕たちが残そうとした言葉かもしれない。
 正直瓶に戻しても戻さなくてもどっちでもいいかなと思ったけど、月越しにあの子も見ているし、こぼれた結晶を拾い上げた。
 僕の手の中で結晶はほどけだし、1枚の写真になった。
 あの子のつくった結晶だった。
 僕とあの子が無邪気に笑っていた。
 この世界の仕組みをまだ知らない、僕たち寮に入ったばかりの頃の写真。
 僕はやや雑な手つきで8本目に封をして、ロープをたぐりながら全ての瓶をゆっくり水底に沈めていった。自分がなぜ泣いているのかわからなかった。だいぶたって、やっと1本目が湖底に届いた感触があった。あの子が最後にこの写真をこっそり結晶にしているところを想像した。8本全部が底に沈んだ手ごたえを得て、残りのロープをどさりと舟の外に投げ捨てた。大きな波紋が広がって、それがだんだんと小さくなって、やがて鏡のような水面に戻った。涙は止まらなかった。

 僕たちの残した言葉が、いつか誰かの耳に入る日がくるんだろうか。
 あの時、僕とあの子が、伝えたかった言葉。
 僕たち自身に投げかけたかった言葉。
「もう、そんなとこからは逃げ出しちゃおうよ」

 

inspired by 『月光密造の夜』(スカート)、『2090年のクーデターテープ』(有頂天)