四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

異説・未来の国からはるばると

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 セワシの棲む地区・ススキガハラst.は、健常民がそれを見下して精神の安寧を得るために造られた、指定被差別管理区域だ。遺伝子や健康状態に欠陥がある者がミスによって堕胎しきれず出産されてしまった場合、現行法上では殺処分できないため、このスラムに送られることとなる。生命を奪われずに済む代わりに被差別者として社会的有用性を発揮せよということだ。
 区画はもちろん厳重に他地域から区切られ、消毒層と殺処分層(もちろんそこから出ようとする者を清潔に処分する)からなる緩衝地帯にぐるりと取り囲まれている。鳥などを媒介して病原が漏出しないようにその壁はどこまでも高く、つまりセワシは小さく切り取られた空しか知らない。

 

 週に一度ほど、「篤志」という時が大きく書かれた自動運転のトレーラーが地区に入ってきて、積んでいる荷物をおろしてすぐに去っていく。その荷はほとんどが汚物だ。
 このシステムが始まった当初は期限切れ食糧やら中古の衣料品やら、ちゃんと使えるものを配給してくれていたらしいが、トレーラーの荷に住民が群がる様を動画中継するようになってから、荷物に使用済み避妊具、吐瀉物の詰まった袋、使用済み生理用品、生ゴミなどの汚物が混じるようになり、いつしかほぼ汚物だけが送られてくるようになったという。
 それでもごくたまに古布などの利用可能な物資が混じっているので、やはり住人は毎週トレーラーに群がらざるを得ない。そしてその様子を映した動画や、それ以外にも地区のあらゆる場所に設置されたカメラからの悲惨な映像が、健常民の心を慰めるコンテンツとして提供されるのだ。

 

 幼い頃からセワシはいつも、汚物の山の中から文字が書かれている何かを真っ先に探す。ちぎられた本の断片、メモ書き、学生のノート、書きかけの手紙から、商品のパッケージに至るまで、字さえ書いてあれば何でも拾い、部屋に収集していた。本一冊など見つけられた日には狂喜した。同じ時に同じ本を5冊見つけたこともある。『(管理職のための)スベらない朝礼』というタイトルで、それもセワシは10回以上は通読した。
 どんなに意味が分からないものであっても、配信される合法動画(エログロに特化している。住民の性欲や暴力を煽ることで、健常民に届くこの地区の様子をより“面白く”するためだ)では味わえない楽しみがそこにはあった。

 

 残暑。この日のトレーラーの荷は、いつも以上に腐臭を放っていて、手で鼻と口を押さえながら群がった住人たちも、長居することなく、ごく少ない戦利品を得て立ち去った。
 今日は本などの大物が見つけられず、がっかりしていたセワシだったが、ふとそこに、派手な黄色の金属製の塊を見つけた。
 素材として再利用するには重すぎると思ったのか、誰も持ち帰らず放置されている。軽く押してみると確かに重く、ゆうに100キロは超えていそうだ。
 球体が二つ連なったような形で、接続部分のくびれに真紅の紐状のものが巻かれている。一方の球体からは突起が二つ出ていて、その先には白いゴムマリ状のものが接続されている。試しにそこを持って引っ張ろうとしてみると、セワシは手がそのゴムマリに吸い付けられるように感じた。「これはなんらかの機能を有する機械なのかもしれない」そう思ったセワシは、もう一つ別についている小さめの突起、くびれの紐と同じ赤色の球状の突起を引いてみた。
 静かな起動音。
 ほどなくして、その物体は起き上がった。うつ伏せの形で横たわっていたのだということがその時分かった。立った姿を見ると、それは自分よりやや低い背丈の、二足歩行型ロボットだった。球状の頭部には三角形の物体が二つ付いていて、猫のように見えなくもない。
「こんにちは。ぼく、ドラえもんです」
 やや眠そうな声で、しかしはっきりとそのロボットは自己紹介をした。
 この国の、そして世界の運命が変わった日、西暦2112年9月3日の出来事である。

 

 

「不良品という意味では僕も同じさ」セワシはクローゼットに寝所を定めたらしいドラえもんに言う。「母さんのお腹にいる時の検査をどういうわけかくぐり抜けて生まれてきちゃった。僕は健常民に比べて皮膚の色素が薄いんだ」
 セワシの住処は約150年前に建てられた集合住宅の一角だ。度重なる地震と風化で、上層階はほぼ瓦礫と化しているが、一部にはまだ骨組みがしっかりと残っている部分がある。もともと2階だったフロアの一部の、風雨が防げそうなエリアを自分なりに改装して住み始めたのはもう5年も前だろうか。
 育ての親にあたる男性がくだらない口論から殺害され、独り身になったセワシは、大人があまり近寄らない森の中にこのマンションの遺跡を見つけた。家に帰るために一度建物横の木を登ってから飛び移るという動作が必要なのが厄介だが、その分安全な生活が保たれていて、気に入っている。
 セワシが数年かけて拾い集めた座布団数枚を並べた上に横たわって、ドラえもんが話を続ける。「身体的異常というのは色素のことだけなんですか?」
「うん。でもここに送られるには十分な障害さ。僕自身は暮らしていくのに困らないけど、何しろ目立つからね。健常民に紛れて暮らすことなんてできないよ」
 ドラえもんは納得できていないようだったが、やがてセワシが寝息を立て始めたので、話はそこまでとなった。
 ドラえもんは製造過程でどうしても数万台に一台は生まれてしまう不良品で、即座に工場で廃棄された。通常は材料再利用センターに送られるはずだが、なぜトレーラーに紛れ込んだのかはわからない。実は人為的なミスによって生まれた不良品で、責任者がミスを隠すために不法に投棄したのかもしれない。いずれにせよ、このロボットの主人はセワシと名乗る色白の少年と決まり、彼の役に立つことが何より優先すべき最高位の目的と設定された。

 

「はい、両手はこの形状でもものを扱いやすいように、吸着機能がついています」
「その鈴みたいなのは?」
「はい、近くに棲息するネコ科の動物を呼び寄せることができます」
 セワシは静かにため息をついて「なるほど、だいたいの機能は分かったよ。まぁ燃料不要というのは素晴らしいと思う」
「はい、核融合炉を搭載しておりますから。ただ、ヒトと同じ食物を消化することも可能です」
 おどけ気味に胸を張るドラえもんを見ながら、セワシはアテが外れた残念さと、ここに捨てられるのだからそういうものだという納得とを同時に感じていた。
 何を期待していたんだろう。この状況を改善できる方法。この日常から抜け出す出口。この世界をひっくり返してしまえる力。
 セワシは首を振って、またしても「つくり話」に毒されている自分を発見する。文字を、本を読むようになってから、セワシは日常の合間に、起こり得ないことを妄想する癖を身につけた。その癖は密かにセワシの生き甲斐になり、またその妄想がさらにセワシに文章を求めさせるのだ。

 

 文章を読むようになってから、セワシにとって世界は呪われるべきものとなった。自分たちが差別されているからではない。そのようにデザインされている世界自体が醜く、呪わしく思えた。
 妄想をふくらませることで、現実と妄想のギャップはどんどん大きくなり、自然と世界を呪う気持ちも強くなった。そして結論は出た。「この世界は正当ではない」
 しかし世界を変えるべき方法など分からなかった。何かないかと汚物とともに送られる文章たちの中に手がかりを求めるが、実際の方法については糸口さえ掴めない毎日だった。
 そこで出会ったのが、この地区では一生手にすることができないような(不良品とはいえ)この精密機械だった。このロボットの力があれば、何かができるのではないか。だが、そんな期待は淡く消えようとしていた。

 

 ふとドラえもんの伸縮自在の手が、腹部の三日月形の衣嚢に滑り込むのが見えた。しかし、手の先端のゴムマリ状の部分が衣嚢の外側に形を示さない。まるで吸い込まれてしまっているように。
「君のお腹のそれは、体内の空間に繋がっているのかい?」
「いいえ、このポケットは異次元空間に繋がっておりまして」とドラえもんは右手を入れたまま左手でポケットを腹部から取り外し、「このように」と右手に先導されるように上半身を丸ごとポケットに入れてみせ、「いくらでもモノが入るのです」
 ポケットから脱け出たドラえもんは恥ずかしそうに、「本来は保管庫として使うのですが、なにぶんひとつも道具を持っていないもので…」
 しかしこのセリフにセワシはがっかりはしなかった。むしろ今頭に浮かんだ計画の壮大さに、熱に浮かされているような興奮と高揚感を味わっていた。

 

 

 セワシは小さなちゃぶ台の前に座り、溶いた穀物粉に野草を混ぜて平たく焼いた、お世辞にも美味しそうには見えない食事を無感情に頬張る。そして、目の前で短い足を器用に組んで座るドラえもんに「僕だけ食べてごめん」と一言謝ってから本題に入った。
「僕らの不潔で惨めな生活は逐一カメラに収録されて、健常民達に中継されてるわけだけど」
 ドラえもんは頷いて先を促す。セワシは小声になって、
「だから僕らの行動は全て監視されているようなものなんだ。もちろん、膨大な映像を全てチェックしているとは思えないけど、目立つことをするのはマズい」
 ここがこの地区の人間すら近寄らない森の中だといえども、油断はできないとセワシは考えている。実際に行動を起こすチャンスは一回だけだろう。
「道具が必要になる。“デパート”にはアクセスできるかい?」
「“MIRAI”デパートのことですか? もちろんぼくたちロボットは皆基本的にアクセス可能ですが、アカウントはお持ちでないでしょうし、そもそもお金が…」
「それはなんとかなると思うんだ」
 セワシは自分の背後にあった扉を開ける。そこには彼が集めた膨大な「文字記載物」のコレクションがあった。
「この中には領収書の切れ端やパスワードのメモ、各種伝票なんかを始め、けっこう際どい個人情報もたくさんある。偽造アカウントで支払いまでいけるんじゃないかと思う。一度だけの買い物ならね」
「犯罪行為ですね」
「ーーって一度は指摘するようにプログラムされてるんだよね、ロボットは。でも結局は主人の命令が法より上位にくる、そうだろ?」
「おっしゃるとおりです」憮然として、ドラえもんは答えた。

 

 ススキガハラst.にはひとつだけ、小高い山がある。南側斜面は一度開発されそうになったのか、やや人の手が入っているが、それも中途で放棄されていて、全体としては前々世紀からその様相を変えていない。
 セワシの住む鬱蒼とした森(人の手が入らぬまま熱帯性の植物が繁茂してしまっている)と違って、適度なまばらさで木が並んでいて、歩くのに心地よくお気に入りの場所だ。
 しかし今日の仕事はキツかった。セワシは地区の様々な場所から希少金属を集めて売ることで生計をたてている。トレーラーに群がって廃棄物を集めるよりライバルは少ないが、その分地区中を歩き回る必要があるし、見つけた金属もその場所から自分で再生工場まで持ち込まないといけない。今回は地区の端っこで見つけた不発弾4発を工場まで運んでヘトヘトだ。
 山の、少し見晴らしの開けた場所に寝そべっていると、ドラえもんが慌てた様子でこちらに走ってくる。目立つから家に待機するように言ったはずだとセワシは訝しんだが、
「ご無事でしたか」とドラえもんは見当外れなことを言う。
「無事も何も、何の問題もないけど、どうしたんだよ。家にいろって言ったろ」セワシの語気は強くなった。
「でもご主人のバイタルサイン悪化の情報が届きましたので…」
 確かにくたびれ切ってはいるけど…、セワシは呆れたが、しょんぼりと肩をすくめたドラえもんの丸みを帯びたフォルムを見て、セワシは「やはり不良品なのかな」という思いよりも、この猫型とされるロボットにむしろ親愛の情を感じるのだった。

 

「ついてきて」ドラえもんを促して二人は一緒に山を降り、今でも露天商などが並ぶ旧商店街に向かった。その中に、珍しく未だに店舗の建物を残したまま商売をしている店がある。創業昭和年間というから、相当な老舗の和菓子屋だ。
「今日は焼いたよ」セワシを見た老齢な店主が話しかける。できるだけ昔ながらの製法を守っているというから相当な頑固者のはずだが、セワシにはいつも優しい。
「え、二つかい? 今日は儲けたね!」カステラ生地で餡子を挟んだ菓子を油紙に包んでセワシに渡しながら、店主は笑顔を見せる。「とりわけデカく焼けたやつ、入れといたから」
 セワシはいつもどおり店主に丁寧にお礼を言って、「焼き立てだ。この状態を保存しよう」とドラえもんのポケットに菓子をしまわせた。家に帰るまでに追い剥ぎに合わないとも限らない。ここは菓子ひとつで簡単に人が殺される場所だ。

 

 ちゃぶ台を挟んで座り、セワシドラえもんにも菓子を差し出して、一緒に食べようと提案した。「もったいないです。こんな高価なもの。ぼくは燃料を必要としませんし、純然たる無駄遣いとなってしまいます」
「でもさ、ドラえもんも味覚はあるんだよね」
頷くドラえもんの目を見てセワシは、
「一緒に食べたいんだ。この美味しさを、体験を共有したい。ドラえもんと」
「しかしご主人…」
「その『ご主人』ってのももうやめよう。ドラえもん、僕はねーー」
形だけで機能はない頭上の三角形の耳を側立てるような仕草のドラえもんに、セワシは、
「僕はドラえもんに、友達になってほしいんだ」

 

 

 ドラえもんには「友達」という概念は入力されていなかった。
 セワシも、文章や本を読むようになるまで知らなかった言葉だ。およそ人同士の関係において、対等なものがあり得るなんて思いもしなかった。
 読んで得た知識からすると、この地区はもちろんのこと、外の世界でも「友達」という関係は見られなってきているらしい。
「合理性がないからだろうね」
 セワシはいくつかの文章や本をドラえもんに薦め、「どうも前世紀の中葉くらいから、より高度な合理性を獲得するために、人類は意図的に進化しようとしたらしいんだ」
「進化」
「うん、そのために人間が切り捨てたのが『物語』というものらしい」
セワシくん、ごめん。ぼくにはよく分からないよ」
 まぁそれを読んでみてよとセワシは立ち上がって、寝床の支度を始めつつ「僕もよくはわかってないんだけどね」と付け加える。
「あと、もう一つ知りたいのが」
「何だい、ドラえもん
「さっきのとてつもなく美味しいお菓子の名前なんだけど」
その神妙な口調にセワシ吹き出して、「なに、気に入ったの?」
「うん、とてつもなく」
入力語彙もまだ少ないなと苦笑しつつ、
「どら焼きっていうんだ」
セワシは教えた。

 

セワシの友達になる」というミッションをドラえもんがこの時点でどこまで理解できていたのかは分からない。少なくとも口調は対等な関係らしいそれに変化したし、最初に見られたような遠慮もなくなった。そして、何よりセワシにとって、ドラえもんはなくてはならない存在になり始めていた。
 その一方で、この二人の様子を画面上で眺めながら、温かさに胸を打たれつつも、「この関係がいつか壊されるんだ」という昏い予感に、言いようのない快感を感じる健常民達も存在したのだった。

 

 セワシの推薦したものを読んだだけでなく、関連情報もセントラルアーカイブにアクセスして入手したらしいドラえもんは、
「『物語』というのは、客観的な情報の伝達を目的としておらず、そもそもその情報自体が不正確、というより完全なつくりごとであることがほとんどで、おそらくは情報受容者を情緒的に刺激することを主眼として編まれていたものなんだね」
 と秩序立った知識を突如披露してセワシを驚かせる。
「虚構情報による情緒的な刺激、というのは正直ぼくにはまだ理解しがたい現象だけど…」
 セワシは無言で先を促す。ドラえもんは一気に続ける。
「人間の脳には、読書などで予め入力された物語というフレームを使わないと、現象の把握すらも難しくなるという脆弱性があって、
つまり諸々の事柄の認知において、既にインプット済みの「物語」を敷衍してあてはめ、認識の助けとしていたらしいんだ。
そしてその事によって、重大な誤謬の元となる認知バイアスが生じていた事は、過去の人類の愚かさの代名詞として、現在は広く知られていて、
しかし、前世紀中葉においてはまだ、そういった誤謬とそれに基づいた判断は、常識的に行われていたみたいだね。
たとえば『応報』という言葉で、完全に独立している事象同士に、オカルトとしか言えない非合理な因果関係を敢えて自ら規定し、現在の不利な状況を納得しようとする、とかね。
物語フレームから完全に自由になることは、脳の構造上不可能だとも言われているけど、今は必要以上に物語に縛り付けられていた時代に比して、人類が明らかな進歩を遂げたのは確かだ。
ーーというようなのが現代の一般的な『物語』への評価かな」

 

「完璧ーーだと思うよ。すごいな、ドラえもん」少し気圧されたような様子のセワシ
「ただの聞きかじりだけど」
「僕はそんなふうに論理立てて考えたわけじゃないんだけど…」少し遠慮がちに、しかし確かな意志をもってセワシは言う。
「『物語』がないと、人間は無駄なく合理的に活動できるんだろうけど、そこで見捨てられるのは」
「ぼくに読ませてくれた本にあったような、人と人との関係性」
「そうなんだ。弱い人を見返りなく助けるとか、そんなつまらない、いや、つまらなくはないな、えーと、非合理だけど僕たちがたぶん本来的にもっているはずの…いや、後天的なものなのかな?物語によって?いや、だとしても…」
「わかるよ。言葉にはできないけど」
「ありがとう」そしてセワシは目を上げて狭い窓から外を見つめ、
「僕はこの世界を変えたいんだ」

 

 

 “MIRAI”での偽造アカウントは簡単に取得できそうだ。ただ、決済までいくと、バレるのは時間の問題となる。
「もう『犯罪行為です』って言わないんだね」
「言っても仕方ないでしょ。それに今は、ぼくはセワシくんのやりたいことを応援したいと思ってる。でも、捕まってほしくないから心配だよ」
「うん」
「友達だから」
 セワシは少し照れて、作業に集中するフリをする。
 ポケットの中の四次元空間。そこでドラえもんと二人、偽アカウントの個人情報の細かい設定を決め込みながら、ドラえもん内蔵のサーバーを介して登録作業を進めている。
「大丈夫、だと思う。今僕が捕まっていないってことは、計画が今のところうまくいってるってことだから」
 この言葉の意味がさっぱりわからないドラえもんは、別の質問を口にする。
「決済と同時に計画実行ってことは、やっぱりここから出るための道具を買うのかい?」
 とおりぬけフープ、スペースイーター、あのあたりの道具では地区を取り囲む壁を突破できないのではないか。おそらくなんらかの障壁機能がはたらいているはずだ。ならばこのポケット内に隠れたままで脱出? いやポケット自体を外に持ち出すのも難しいだろう。途中の処分層で焼却などされるのがオチだ。
「いや、ほしいのはタイムマシン」
セワシは小声ながらも覇気を込めて言う。
「世界を変えるには過去を改変するしかない」

 

 なるほど、とドラえもんはさっきのセワシの言葉を反芻する。
「今」セワシがTP(タイムパトロール)に逮捕されていないという事実が「これからの」計画の成功を担保している、という考えか。確かに、重大な歴史改変に対してはTPは断固たる姿勢で臨む。人権人命無視はもちろんのこと、“改変を防ぐことによる多少の改変”も厭わない。
 とはいえ、なるべく改変を最小限に済ませたいTPがセワシを現状では“泳がせている”という可能性もなくはない。現在の時空間において何か決定的な行動をとろうとした瞬間、現れたTPに処刑されるということも十分考えられるのだ。
「こうして四次元空間に隠れていることは、単純だけどけっこう効果的だと思う」
 天地左右のない空間で器用に偽アカウント登録を進めながらセワシは言う。
「TPの最大の敵は、その監視領域の膨大さなんだ。何しろ世界全ての全時間軸を担当しなきゃいけない。基本的には自動監視システムに頼り切りのところがあってね」
と、ドラえもんの頭部の耳状アクセサリに触れて、
「だから意外とアナログな方法が効果的だったりするんだよ」

 

 セワシの家の風呂場。20世紀の建物ではよくあることだが、後代の住居よりも広めに作られている。もっとも、風呂と呼べる施設は排水口くらいしか残っておらず、あとはセワシが置いた大きい水甕と割れたすのこがあるだけだが。
「時間移動中の物体のステルス性を上げるには、物体が球状もしくはそれに近いこととーー」
「本気なの!?」ドラえもんはほとんど絶叫している。
セワシは「ごめんね、でもこれは飾りで機能はないから」
「いやそんな問題じゃーー!」
セワシは手にしたハサミでドラえもんの頭部にある耳状の突起を切り取り始めた。「痛いかい?」
「痛覚はないけど、いやそうじゃなくて、ぼくはこれでも猫型ロボットでーー」
 意外と綺麗に来れるもんでしょと自慢するセワシの手のハサミが、可愛らしくネズミをモチーフにした子供用のそれなのが、よりこの光景の痛々しさを増すのだった。
 ドラえもんに鏡を渡して「結構似合うよ」と笑いかけるセワシに、これが本当に「友達」に対する扱いなのか疑問を呈する間も与えられず、
「球状に近いことと、あとは特定の波長の光を反射すること」
セワシは、どこから取り出したのかペンキの付いたハケで、ドラえもんを塗装し出した。
「ええぇっ!!」

 

 数十分後、虚脱し切ったドラえもんは、「乾きがいいから」と家の外に連れ出された。ちょうど10月に入ったばかりで風は心地よく、頭上の空は“壁”で小さく切り取られてはいるものの、抜けるように青い。
 顔や腹を塗らずに白く残してくれたのは情けなのか、僅かな友情なのか、それとも予算の関係でペンキが単に足りなかっただけなのか。それを確かめる気力も失ったドラえもんは、セワシと同じように空を見上げた。
 自分が今塗られたのと同じ、なぜだか見るものを安心させる美しい青を。

 

 

「お前、車持ってないだろ? こんなのどうやって持って帰るつもりなんだ?」
 ジャンボの当然な疑問を曖昧に受け流しながら、セワシは頼んだ材料を集めてくれた幼なじみに丁寧に感謝した。
「家の庭にでっかい犬小屋でも建てんのか? ならめちゃくちゃデカい犬だな。うちのムクもビックリだぜ」そんな冗談を言いながら、ジャンボはデカい体をすぼめるように運転席に座って、この木材を載せてきた車に乗って帰っていく。「ほんとに送ってやんなくていいんだな? 配送の別料金、少しは負けてやってもいいけど」笑顔で首を振ってセワシはジャンボを見送った。
 脂肪細胞比率が健常民よりほんの少し多いことが判明してここに送られたジャンボは、カネには少しうるさいけど仕事は信頼できる。彼の車がすっかり見えなくなってから、犬小屋じゃなくて中に入るのは猫型ロボットなんだよな、と呟きながら、セワシは隠し持っていたドラえもんのポケットに木材をしまい始めた。

 

 一方ドラえもんセワシの住む建物の裏にある空き地の絶対座標を測定し、“MIRAI”へのタイムマシン注文の最終準備に入っていた。決済の瞬間には全てを完全に整えていなくてはならない。
 “MIRAI”は注文時に指定した秒単位の日時と絶対座標で示される場所に、商品を転送してくる。パッケージを省く指定もしておき、届くと同時にタイムマシンを起動、即座にドラえもんが過去に向かう計画になっている。
 セワシは、人間よりロボットの移動の方が圧倒的にTPの網にかかりにくい、という理由でドラえもんを単独で過去に送り込むつもりだ。「たとえぼくの時間移動が成功したとしても」ドラえもんは思う。その直後にセワシが危険に晒される可能性は大いにある。セワシは自分自身を捨て石にしようとしているのではという疑念が、どうしても消せなかった。
 いや、そもそも。
 ドラえもんが過去改変のミッションに成功したとして、この現在に戻って来た時、セワシはそこにいるのだろうか。仮にいたとして、それは自分の知るセワシなんだろうか。
 自分の考えに慄然として、ドラえもんセワシが戻るまでずっと立ちすくんでいた。

 

「ひとつには、時間の移動より座標の移動の方がTPの自動監視クロウラに引っかかりやすいというのがあって」
 空き地の中のドラえもんが指定した場所に、木材を使って簡易的な小屋を建てながら、セワシは説明する。それを手伝いつつ、ドラえもんは神妙な顔で聞いている。
「あと、こっちが重要なんだけど、過去改変は僕自身の遺伝子的な直系先祖に託したいと考えてるんだ。赤の他人に迷惑をかけるのが申し訳ないというのもあるけど…、実は勝算が少しあってね」
 小一時間で小屋は完成した。ちょっとした風でも倒れてしまいそうなシロモノだが、用途はその中にタイムマシンを配送してもらい、ほんの一瞬の置き場にするだけだから、外から遮断された空間ならなんでも構わない。セワシは中に入って壁の内側に隙間なくアルミホイルを貼り付けていく。電波の遮断が少しは時間稼ぎに役立つかもしれないからだ。
 無言で手伝っていたドラえもんが、天井までホイルを貼り終えたセワシに、意を決して提案する。
「やっぱりやめない?」

 

 セワシは一瞬驚くが、その言葉を口にしたドラえもんの目に隠しようもない温かい慈愛を感じ取り、ほんの少しため息をついてから「ありがとう。でももう決めたんだ」
「本当に世界を変えなくちゃダメなのかな。人間というものは安定した社会を継続させるためには恒常的な差別が必須だという結論も出てると聞くよ。それが合理的なのかもしれない」
「人間が、いや僕らが僕らでいるためには、合理性を捨てなくてはいけないんだ」相変わらず小声だが、芯のあるセワシの声。「僕らが」と言い直してくれた意味を十分過ぎるほど受け取って、ドラえもんは、
「そりゃここの暮らしはキツいこともあるけど、ぼくは楽しいよ。友達、っていう命令は最初はむずかしかったけど、今はもうやめることなんてできない。もう命令じゃないからだ。セワシくんと一緒に食べるどら焼きは美味しい。でも、同じどら焼きでも、一人で食べても絶対美味しくない! これがロボットなのに“合理性を捨てた”ぼくの正直な思いだよ!!」もう、涙を止めようともしなかった。

 

 二人はしばらくの間、小屋の中で無言で佇んでいた。開け放してある扉から差す西日が、貼られたホイルにキラキラと反射する。
ドラえもんは、いいロボットに育ったなぁ」しみじみとそう言った後、セワシドラえもんのゴムマリのような手をガッシと両手で握って、
「僕のご先祖さま、おじいちゃんのおじいちゃんとも、友達になってくれないかな」
 この潤んだ瞳の奥にある固い意志を誰よりも理解できるのは、友達であるぼくだ。全てを了解したドラえもんは、”MIRAI“への注文の最終確認を行う。
 決済が完了した。
 ルルル…、という音とともに小屋内部の空間が歪み始める。
 セワシは小屋から出て、後ろ手に扉を閉める。
 空中にむき出しのタイムマシンが現れ始める。
「毎度ありがとうございます! ”MIRAI“デパートです。ご注文の品をーー」
 やかましい自動音声の向こう側に、ドラえもんは確かにセワシの小さな小さな声を聞いた。
「さよなら。またどこかで」

 

 

 野比のび太は、さほど驚かなかった。
 勉強机の引き出しの中という意外なところに出口が接続されたドラえもんの方が驚いているようでさえあった。
 機先を制されたような格好で、ドラえもんはあたふたとタイムマシンを時空間中に繋留してからのび太の部屋に降り立ち、今の日付を尋ねた。
「1970年の1月1日、元旦だよ」
 女の子のように高くて優しい声。設定どおりにたどり着いたことにまずはホッとする。
「信じられないだろうけど、ぼくは2112年から来たんだ。やらなきゃいけない、とても大切な仕事のために。力を貸してほしい」
 こんなふうに伝えるつもりじゃなかった。まるで「正直電波」でも当てられたようじゃないか。もっとうまいやり方でこの時代の人間を驚かせないようにじっくり馴染んでいくはずだった。
 しかしドラえもんは、セワシの面影があるのび太の顔と、その優しい声にすっかり安心しきってしまったのだ。
 のび太は「うん、力を貸すのはいいけど、でも君は」とドラえもんをまじまじと見つめて、
「なんでそんなに悲しそうなの?」

 

 “人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむこと”が人間にとって“一番大切”とされた時代は確かにあった。そのような共感能力は往々にして人を合理的判断から遠ざけるとして、22世紀では害悪だとされている。だが、20世紀においてさえも、こののび太ほどの共感力は、特別と言えたかもしれない。
 ドラえもんは目の前に正座するのび太の膝にすがりつくようにして泣いていた。
 セワシという友達との思い出、彼とのおそらく永遠の別れ、そして彼から託された使命。それらを言葉を詰まらせながらもドラえもんは順々に話し、聞くのび太も涙を止めようとはしなかった。
「わかった。僕ができることはやってみる。でも、具体的に何をすればいいんだろう」
「『物語』なんだ。『物語』が滅びないようにしなきゃいけない」
 だが、まだふんだんに『物語』が周囲に存在するこの時代の人間に、いつかそれが失われることを説明するのは難しいだろう。それはドラえもんも分かっていた。しかも目の前の少年は未だ10歳だという。セワシが自分をこの時代に送り込んだことからしても、おそらくこのミッションは、彼と長い長い時間を共に過ごしながら遂行すべきものなのだ。

 

「うまいもんだなあ」
 のび太にもてなされた餅をあっと言う間に平らげて、ドラえもんはこの部屋に到着した時に感じた疑問を口にした。「なんでぼくがここに現れた時、あまり驚かなかったの?」
「うーん、いや驚きはしたよ。でも、まぁ、そんなこともあるかなぁってね」名前のとおり、のんびりとした口調で答えるのび太
 セワシくんと、見た目は似てるけど、中身はまるで違うもんだなぁとドラえもんは思う。これから一緒に困難なミッションに立ち向かうのに、ちょっと不安にはなるが、この少年にすでにすっかり心を許している自分にも気づいていた。
「周りから変わった人だって言われない?」そんな失礼な質問も口をついて出る。
「父さんや母さんから『空想力がすごい』とは言われるかなぁ」
 のび太は、あり得ないこと、不思議なことを想像するのが好きなのだと言う。いつもそんな妄想をしてるから、今回もあんまり驚かなかったのかもと。
「さっきの話はよく分からなかったけど、僕も『物語』は大好きだよ」

 

 餅をおかわりした後、その皿まで舐めているドラえもんに苦笑していたのび太は、モジモジと迷う様子を見せていたが、やがて意を決したように、
「実はね」
と机の別の引き出しからノートを取り出してドラえもんに見せる。
「僕、漫画を描いてるんだ。下手くそで恥ずかしいけど」
『漫画』。ドラえもんのデータベースにも概念は入力されている。確かセワシもいくつかの断片を持っていた。『物語』の描写様式のひとつで、やはり21世紀中葉には描かれなくなったという。
 ドラえもんはノートを開いた。稚拙な絵と文章で、自分を主人公にしたらしい冒険もののような『物語』がいくつか描かれている。
「ここなんだ。この話はまだ描き始めだったんだけどーー」とのび太はあるページを開いてドラえもんに見せた。
 そこには、まさにこの部屋にあるような勉強机の引き出しから何かが飛び出して、のび太自身と思われる主人公が驚いている絵が描かれている。その「何か」はしかしまだ空白のまま描かれていない。
「思いつかなくて。すごーくおもしろく、すごーくゆかいなものが飛び出してくる予定なんだけど…」
 偶然にも空想と現実が一致したわけか。確かにたいした空想力だとドラえもんは感心した。
「じゃあ、飛び出てきたものをぼくってことにしてさ、続きを描こうよ」
「うん、実はそうしたいなと思ってたんだ」笑顔で応えたのび太は、改めてドラえもんをじっと見て、
「じゃあ名前を知っておかなきゃ。そろそろ教えてくれる? 君の名前を」
 まだ名乗ってもないなんて、ずいぶん慌てていたからか、すぐに打ち解けた証拠なのか…。ドラえもんは照れ笑いを浮かべた後、いたずらっぽくかしこまって、
「こんにちは。ぼく、ドラえもんです」

 

 

 野比のび太は死のうと思っていた。
 勉強ができない、運動もできない、たまにイジメにも遭う。でもそんなことが嫌なのではなかった。もちろんそれも辛かったが、両親は基本的に優しいし、楽しいことだってなくはない。彼を追い詰めていたのは、未来にまるで希望がもてないことだった。
 冬休みの宿題に「将来なりたいもの」について書くという作文があった。のび太は、会社員になりたい、なれなかったら自分で会社をつくりたい、という内容の文章を書いたが、まるで本心ではなかった。画家の道を諦めて会社員になった父のことは尊敬していたが、自分は会社で働きたくなんかなかった。どころか、「なりたいもの」そのものがなかった。この世界で何かの位置を占められる気がしなかった。それなのに、まったく望みもしない未来をまるで希望に満ちているかのように作文に書いてしまい、そのことがまた深くのび太を傷つけた。
 強いて言えば、漫画を描くのは楽しかったが、漫画家になれる気はしなかった。犬を描いても人からは猫だと言われる、絵の先生には「幼稚園の時に描いた絵か」と呆れられる。自分の才能については十分把握しているつもりで、甘い希望的観測はもてなかった。
 元旦の昼下がり、部屋でぼんやり膝を抱えていると「のび太は30分後に首を吊る」そんな声がどこかから聞こえた気がした。それもいいか、その導きに従おうかなと思った時に、机の引き出しが開いたのだった。

 

 ドラえもんの話すことはのび太にはあまり理解できなかった。それでも、目の前の青いロボットが、「セワシくん」という人物を大切に思っていることは伝わってきた。そしてその人に願いごとを託されたことと、その人とは二度と会えなくなってしまったことも。
 真剣さは理解できたし、ドラえもんセワシくんという人も可哀想だと思ったが、でも自分が何かの力になれるとは思わなかった。こういうタイムスリップものの漫画を読んだことはあるけど、誰かを殺されないようにするとか、何かの発明をさせないようにするとか、そういうはっきりした目標がないから、具体的にしなきゃいけないことが分からない。正直にそうドラえもんに伝えながら、もし具体的にすべきことが分かっても自分などには遂行できないだろうと確信もしていた。
 自分の「子孫」であるというセワシくんの写真も見せてもらった。確かに似ている、とのび太は思った。そして、子孫がいるということは僕はまだ死なないのかなぁと他人事のように感じていた。

 

 のび太の両親はすぐにドラえもんを受け入れた。この時代の常識に照らしても、未来から来たと言う自称猫型ロボットの居候を認めるというのは異例の対応と言えた。一つはのび太の両親が、想像力は豊かなのだが、その分夢見がちですぐに自分の世界に籠ってしまう息子を心配していたというのがあっただろう。得体はしれないが常識は弁えていそうで、しかもどうやらのび太が既に懐いていて、話し相手に最適そうなドラえもんが、のび太を良い方向に変えてくれると期待していたのかもしれない。
 確かに、ドラえもんのび太にすぐに気を許したように、元来人見知りなのび太もこのロボットには何故か心を開けるのだった。
 青くて耳もないのに猫型ロボットと名乗るのを聞いて、「そういえばお餅のお皿を舐めてた時は猫っぽかったかも」と思い出して笑顔になる。なんだかんだ言って僕も、父さん母さんも、このフォルムと色に安心してしまっただけなのかも、とも思った。

 

 ドラえもんが「手伝って」くれて、のび太の漫画制作は飛躍的に進んだ。
 まず自分のロボットとしての機能、そして22世紀の健常民たちの世界の様子、さらに便利な道具についての知識、それらをドラえもんから与えられて、のび太は想像の翼を大きく拡げていくのだった。
「じゃあさ、何をやってもダメな子のところに22世紀から送られてきて、その子の未来を変えることで、送り主の子孫に豊かな暮らしをさせる、それをドラえもんの目的にしよう」
「その子が主人公で、のび太くんってわけか。じゃあぼくは先生役だね。のび太くんをビシバシ鍛えるのか」
「それはあんまり面白くないなぁ」のび太は渋い顔で却下して、
「そうじゃなくて、その子が困ってるのをいつも助けてくれたり、その子がやってみたいことを叶えてくれたりするんだ。ポケットの中の道具を使ってね」
「ぼくは道具を一つももっていないよ」
「これはお話だから」笑いながらのび太は、
「だから本当は未来にもない道具だって漫画には描いてもいいんだよ」
 そんな話をしながら、ノートはどんどん埋まっていった。この面白さをちゃんと形にするためには絵が上手くならないといけない。それを痛感したのび太は、真剣に絵に取り組み始めた。あやとりや射撃など、もともと凝り性なところがある少年は、少しずつだが着実に、絵での表現力をつけていった。
 そしていつしか、死のうと思った気持ちを忘れていった。

 

 

 ドラえもんはずっと罪悪感を抱いていた。
 20世紀の暮らしは楽しかった。のび太とその家族だけでなく、彼の同級生や町の人たちにもこころよく受け入れられ、居心地がよかった。住民たちは基本的に悪意がなく、安心して毎日を過ごすことができるし、人間だけじゃなくネコの「友達」だってできた。
 でも、22世紀のすすきケ原にも残っていた和菓子屋でどら焼きを買って、“裏山”の景色がいい場所で食べていると、どうしてもセワシを思い出した。
 この計画はほんとに成功に向かっているのか。このまま過ごしていていいのか。そして、セワシはあの後どうなったんだろうか。どうしようもない焦りと、自分だけが平和で快適な場所にいるという後ろめたさは、いつもドラえもんの電子頭脳の中に渦巻いていた。

 

 セワシは「未来が変われば、絶対に何かの兆候(サイン)がある。それを見逃さないで」と言っていたが、ドラえもんには未だにそれが見えない。
「それが見えるまで、絶対に戻ってきたりしちゃダメだ。全てが台無しになる」とも言っていた。何か確信があったのかもしれないが、時間が経つほどに、セワシの言葉を疑ってしまう気持ちが強くなっていった。
 やはりタイムマシンで一度未来に帰ろうか。本当に何度も考えた。現実的にTPがぼくらを追っている可能性なんてあるのか。実際はまるで警戒されていなかったりするのでは。そんな思いでタイムマシンに乗り込み、起動スイッチを入れようとした瞬間に、「全てが台無し」と言った時のセワシの語気と真剣な表情が目に浮かんで思いとどまる。そんなことを何度も繰り返した。
 着く時代の設定が間違っていたんじゃないかと思うこともしばしばだった。まだこの時代は『物語』に溢れていて、人類はそれがもたらす良い面も悪い面も素直に享受している。もう少し先の時代の、『物語』が力を失い始めているとき、人類が合理性を突き詰めなければならないほど追い込まれる時代を訪れるべきだったのではないか。
 別の時代に行ってみようか。ただ、そのためには自分がこの時代のことをよく学んで、いつの時代に向かうべきか、ある程度の仮説を立てられるようにならないと、とも思う。
 正直、のび太と過ごす時間が楽し過ぎて、踏ん切りがつかないという気持ちもあった。

 

 学校や人間関係でうまくいかない彼の相談相手になったり、のんびり屋でともすれば怠惰とも言える彼の尻を叩いたり、たまにはイタズラの共犯者になったり。
 何よりのび太とはたくさんの話をした。のび太は未来のことをいつも聞きたがった。
「ねぇドラえもん、教えてくれた未来の道具の中でもさ、『もしもボックス』っていうのは、ちょっとズル過ぎない?」
「あぁ、”可能世界“を行き来できる道具ね。高いんだあれ。でもあれは、タイムマシンと違って世界を根本的に変えないからね」
「どういうこと」
「行った先の世界も元の世界も、もともと並行したまま存在してたもので、道具を使った本人だけが行き来してるだけだから。あれ、難しかった?」
 のび太はちんぷんかんぷんといった様子だったが、こういった会話がのび太の想像力をさらに刺激していたのは間違いない。
 のび太の描く漫画は、懸命に練習した絵だけでなく、その内容も次第に鑑賞に耐えうるものに進歩していった。

 

 ドラえもん野比のび太が漫画家になるのを知っていた。
 もちろんそれを本人には絶対に伝えないようにしていたが、だからのび太の変化は想定内で、つまりは現時点では未来は変わっていないということだと失望もしていた。
 セワシが別れ際にドラえもんに持たせてくれた箱には、セワシのお気に入りの『物語』が詰められてあった。彼は自分の宝物を最後にくれたのだ。円形を二つくっつけた、瓢箪を平らにしたような箱を、セワシはわざわざドラえもんに似せて彩色していた。
 自分をかたどった箱の中のものを、ドラえもんは何度も読み返した。一つ、本の形をしていない綴じられた紙の束があって、それが野比のび太の描いた漫画だった。20世紀に描かれたものが22世紀まで残っていたのは、おそらく後代にデータから紙出力され直したものだろうか。
 一度のび太に箱を見つかって中身を見られそうになったことがあった。自分の作品を描く前に読むのは歴史に大きな矛盾を生むので、ドラえもんはいつになく厳しい口調で、この箱は「絶対に開けちゃダメだ」と伝えた。
 その漫画は、20世紀から見た「未来」を舞台にした空想作品で、人類の暗い終末を丹念に冷酷に描いている。読んで慄然とするという意味で感情は動かされるが、お世辞にも楽しい作品ではない。今ののび太とはまったく結びつかないようにドラえもんは感じていた。

 

 

10

 二人が別れてから、25年が経った。
 のび太の小学校卒業と同時にドラえもんは旅に出た。ただ、今より未来に行くのではなく、過去を転々と訪れながら、人間と物語の関わりあいについて学ぶつもりだった。一発で未来を変えることなんてできないという思いもあった。自分はロボットで、年も取らないしお腹も減らない。時間をかけなきゃいけない、それをセワシも望んでいるはずだと信じて。
 のび太は中高と学校教育を受けながら、紆余曲折はあったものの目指す職業漫画家になることができた。時代的にも漫画という表現形態が大きく花開いたときであり、得意の空想力を存分に発揮した、大人向けのSF漫画の描き手として、なんとか食うに困らないほどの読者を得ることはできた。
 25年前、別れ際に二人は「またどこかで」と約束した。嫌になるほどお互いを知り合った濃密な時間は、別れの必然性をお互いに理解させるための言葉を必要としなかった。
 道はここで分かれる、その思いだけがあった。
 そして、目指すところが同じであるならば、「またどこかで」とも。

 

 そして今、のび太は筆を折ることを考えていた。
 描きたいものを描いて売れないのは仕方ない。描ける機会をもらえるだけでありがたい。
 でも、描きたいもの、つまり自分の空想が、この現実の先にあるものを想起しようとすると、どうしても「滅び」「終末」などのモチーフに結びついてしまう。
 ディストピアもの漫画家としての評判は、のび太にとってはそれほど嬉しいものではなかった。できれば前向きな作品を描きたいとも思う。でも、自分の想像力がそうさせてくれない。この時代に、どうやって明るい空想ができるのだろうか。それがのび太には分からなかった。

 

 仕事場から自宅への帰り道、今自分にできる他の仕事はあるだろうかと考えていると、川沿いの満開の桜から花びらが舞ってのび太の頬に張り付いた。
 月は4月に変わったばかりで、少し肌寒さも残っている。あの先生の専属アシスタントという手もあるな、いずれにしてももう自分には漫画を描くのは無理だ。描くネタの引き出しも空っぽに近いし、同工異曲の作品を騙し騙し描いてもただ消耗していくだけだ。
 こんなに美しい桜並木を見ても、想起するのは「クローンだから枯れる時は同時」といううすら寒い絵ばかりだ。
 どうしてこうなってしまったんだろう。
 環境問題、エネルギー危機、核兵器、大規模災害、水や食糧の不足…。自分たちの滅亡を予言されて、有効な対策もしないどころか騒ぎ立てようともしないーーそんな人類を見過ぎてしまったからだろうか。
 あるいは僕はナイーブ過ぎるのかもしれない。でもあの頃のような明るい空想はもうできない。

 

 いつのまにか家に着いていた。
「あの頃」か。もう捨ててしまってけど、ドラえもんがいた頃、ノートに描いていた漫画が一番前向きで明るい想像力を発揮してたかもしれない。のび太は懐かしく思い出し、本当に捨てたっけと押し入れを探し始め、懐かしい箱を見つけ出した。
 ドラえもんを模した、平たい瓢箪型の箱。
 開けようとしたら、初めて見るような怖い顔で怒られたっけ。
 のび太が目を閉じてその箱を愛おしそうに頬を寄せていると、机の引き出しから懐かしい声がした。今度は前よりもずっと優しい声で、
「絶対に開けちゃダメだよ、のび太くん」

 

 

11

ドラえもん!」自らが発したその発音自体が懐かしい。
のび太くんは変わったねぇ」昔とまったく変わらない顔で、上半身だけ引き出しから乗り出したドラえもんが言う。「人間だからね」背格好も顔つきも声も、おそらく中身も、変わるのは仕方ない。
 自分が出てきた引き出しをそっと閉じて「また引き出しに着いちゃった」と呟くドラえもんのび太は抱きついた。お互いの存在を確かめ合うように、しばらく無言で抱擁し合う二人。
 まずのび太が簡単に自分の25年間をドラえもんに伝える。「そんなわけで37になった今も、漫画家を続けられてるよ」辞めようと考えていることは、言わずにおいた。
 ドラえもんは本当にいろんな時代、いろんな場所に行っていたらしかった。古代ローマ、アステカ、戦間期のヨーロッパ、果ては恐竜の時代まで。
「それは『物語』とは関係なさそう」とのび太がつっこむと、ドラえもんも照れながら「ただの趣味だね。でもいろんな画像データ、つまり写真を集めてきたよ。漫画つくるのに欲しいんじゃない? のび太くん」
 以前なら飛び上がって喜んだだろうのび太だったが、曖昧に頷いて「後で見せてよ」と言うにとどめた。「それより話を聞かせてよ。せっかく久しぶりに会えたんだ。どう? 計画は順調?」
 しかしドラえもんは俄かに顔を曇らせて、
「実は、元いた未来に帰ろうと思ってる」

 

 その言葉の意味するところは二つ。
ドラえもんはいくつもの時間旅行を経ても、計画遂行の手がかりを掴めなかったということ。
 もう一つは、今度の別れのあとは、二度とのび太に会えないということ。
「お別れを言いにきてくれたんだね」
のび太の言葉に無言で頷くドラえもん。「ぼくは、うまくできなかったみたいだ」
 のび太はさっきまで頭の中を占めていた自分の悩みを放り出して、深く傷ついているドラえもんの気持ちに寄り添った。のび太自身に問題があって、歴史が変わらなかったんじゃないかという自責の念もわいてくる。
 懐かしいゴムマリのような手をそっと握って「でも、またセワシくんに会えるんだからさ。きっともう一度計画を立て直せるよ」そんな言葉を紡ぐのが精一杯だった。

 

「明日の朝発つんなら、今日はうちに泊まっていきなよ」
 のび太の提案にドラえもんは笑顔で頷いた。
 どら焼き尽くしのささやかな宴席のあと、一応寝具の用意をしたのび太だったが、

「眠れる気がしないよ。今夜は朝まで話そう」
「ぼくもそう思ってた。眠らなくても平気なクスリ、飲むかい?」
「それどこで手に入れたの?」
「アステカで祈祷師に…」
「それ、大丈夫なの!?」
 のび太は久しぶりに心の底から笑った。

 

 思い出話は尽きなかった。
 どら焼きの味が変わったと和菓子屋に泣きながら抗議にいったこととか、のび太が竹馬に乗れるようになるまでドラえもんが厳しくしごいたこととか。
 のび太の描いた漫画の描写が気に入らなくて(「ぼくは絶対に『やろう、ぶっころしてやる』なんて言わない!」と怒った)、ドラえもんが1週間くらい口をきかなかったこともあった。
 一緒に暮らしたのはたった2年ちょっとなのに、今振り返ると永遠のような長さの輝いた時間。
 その思い出の中の自分は、今の自分がどこかに置いてきてしまったものだと、のび太は気づく。
 ずっと自分のために漫画を描いてきた。それは間違ってないと思う。でも「今の自分」に向ける漫画ばかりで、漫画を描きたいと最初に思ったあの頃の自分を忘れていた。
 あの日の僕に漫画を描いてあげたい。
 嘘の「将来の夢」を書かされて寂しく膝を抱えてた僕に向けて。
 のび太ドラえもんに尋ねる。
「もう一度、君を描いてもいいかい」

 

 急な言葉に最初は意味が分からず、ドラえもんは戸惑った。
 のび太は続ける。
「今まで大人向けの漫画ばかり描いてきたんだ。今の自分に向けたようなね。でも、行き詰まってた。本当はもう、漫画を辞めるつもりだったんだ」
 驚いて何か言おうとするドラえもんを制して、
「でも、今度の新作は子ども向けに描いてみようと思う。まったく初めての挑戦で、うまくいかないかもしれないけど、やってみたいんだ」
 再会してから初めて、のび太の言葉と表情に力が漲っているのをドラえもんは見てとった。そうだ、彼は時折こういう顔を見せてくれる人だった。
「うん、いいんじゃない。相変わらずモデル料はただにしておくーー」
 ドラえもんがそんな冗談を言おうとすると、部屋の片隅に置かれているドラえもんを模した箱の蓋が勝手に開いた。と思うと同時に、堰が切られたように箱の中からたくさんの本がとめどなく溢れ出してくる。
 それは野比のび太の描いた『ドラえもん』の漫画だった。しかも真新しい本ばかり。「見ちゃダメ!」ととっさにのび太に目を閉じさせ、ドラえもんはポケットに本をしまっていく。確かめると、確かに22世紀に印刷されたものだった。
 これが兆候(サイン)だ! ドラえもんは確信する。
 未来は変わった。
 僕たちがただ楽しく暮らすだけの、見方によれば他愛もないお話が、後世にしっかり残って『物語』を生き長らえさせるんだ。
 のび太に目を開けさせて、ドラえもんはゆっくりと、計画が成功したようだと告げた。
 机の向こうにある窓から、まだ弱い朝の光が差し込み始めていた。

 

 

12

 結局ドラえもんは、朝、のび太が眠りに就くのを待って、やはり未来に帰っていった。簡単な書き置きがあって、元いたところとは違う世界になっているだろうけど、やはりセワシが思い描いた世界を見たいということだった。あとには空になったドラえもん型の箱だけが残された。
 のび太は何が未来を変えたのか分からなかったが、ドラえもんの望みが叶ったのなら良かったと、素直に喜んでいた。
 それは一瞬の再会だったが、のび太にとっても一生を変える出来事だった。
 のび太は、自分のこれからの新しい挑戦を思って、体が熱を帯びるのを感じていた。

 

 漫画『ドラえもん』は人気作品になった。
 テレビアニメになり、映画化もされ、グッズなど関連商品も続々生まれ、のび太は多忙を極めた。
 そんな中、結婚もし、子どもも生まれた。
 多大な収入があることを感じさせない、つつましい生活を送りつつ、もはや自分の手を離れて国民的なキャラクターになったドラえもんを、自分のペースで描き続けていた。

 

 1日だけの再会から10年が経ったある日、またのび太の机の引き出しが内側から開いた。
 出てきたのがドラえもんではなかったことにのび太は驚いたが、よく見ると見たことのある顔つきだった。
「おじいちゃん、こんにちは」
 この子がセワシか。自分の子どもの頃に似た、孫の孫。彼に続いてドラえもんも引き出しから出てくる。
 ドラえもんは「また老けたね」とずいぶんなご挨拶をしてから、この10年間と、のび太の子孫をここに連れてきた経緯を説明し始めた。
 22世紀は平和で美しい世界になっていたこと、
 TPが接触してきて、長い取り調べを受けた後に、彼らが現状を正統な歴史として認定するという結論に達したこと(つまりお咎めはなかった)、
ドラえもん』という漫画は22世紀でも形式を変えながら世界中で読まれていることと、ドラえもんのデザインが少しスマートに(!)なっていたりすること、
 のび太の子孫を探すのにそんなに苦労はしなかったこと(何しろ野比のび太は有名な歴史上の人物だ)、
 ドラえもんが戻った時点でまだセワシは生まれたばかりで(生まれる年が少しズレたらしい)、セワシがこんなふうに育つまで一緒に暮らしていたこと、
 そんなドラえもんの話を聞きながら、のび太は、じゃあこのセワシドラえもんが知っているセワシではないんだなということを改めて認識していた。

 

「ぼくが過去に行っていたことを話したら、自分もどうしてもご先祖さまに会ってみたいって言い出してね」
 ドラえもんセワシの頭を撫でながらそう話す。友達というより弟や息子に対してするような仕草だった。
 漫画が大好きだというセワシに絵を描いてやりながら、のび太ドラえもんを「『物語』は絶滅しなかったんだね。ドラえもん、やったね」と改めてねぎらう。ドラえもんは少し複雑な笑みを浮かべて「のび太くんのおかげで“友達”の思いが果たせたよ」
 もうその“友達”の名は口に出せないのだろう。その名前は、別の人物のものになっている。そしてその人物も、今のドラえもんにとっては大切な人なのだ。

 

「あまり長くいるとTPに怒られちゃう」と、まだのび太と居たそうなセワシを促して、ドラえもんは帰ろうとする。
 のび太は「ちょっと待って」と引き留めて、小さな袋を手渡した。
「これ、勝手に作ってごめん」のび太が渡したのは銀行の通帳と印鑑だった。
ドラえもんの名義で作ってある。未来で引き出してみて」
 ドラえもんは現在の通帳の金額に驚く。この時代でも郊外になら立派な一軒家を建てられそうな額が既に定期で預金されている。「これ…」ドラえもんが戸惑っていると、
「全部ドラえもんとの思い出で貰ったお金だからーー。ドラえもんに買ってほしいものがあるんだ。」
「未来で?」
「うん。『もしもボックス』。高いって昔言ってたろ。」
「そうだけど。確かにこれなら22世紀までの利子も合わせたら買えると思う。でものび太くん、何に使いたいの?」
 のび太は「やれやれ」といった様子で、
ドラえもん! 君が使うんだよ。
もしもボックス』は可能世界を行き来する道具だって言ってたよね。あり得たはずの世界に行けるんならーー」
「ぼくが元いた世界に!?」ドラえもんは丸い目をさらに丸くする。
「そう。“友達”に会いにいって。困ってたら助けてあげて、さ。」

 

 ドラえもんは泣きながら何度も何度も「ありがとう」と言った。
 このプレゼントが嬉しいだけじゃない。のび太が「セワシくん」のことをまだ気にかけてくれていたことが何よりも嬉しかった。
 ぼく自身ですら、諦めかけていたのにーー。

 

 突然泣き出したドラえもんを不思議がるセワシと一緒に、ドラえもんは22世紀に帰っていった。のび太はそれを見送りながら、
 向こうに着いたら『もしもボックス』を手に入れられるだろうか、それを使ってドラえもんが向かう世界はどんなところだろうか、そしてそこではどんな再会があるのだろうか、もしかしたらTPを向こうに回した大冒険があるかもしれない。
 でもきっと、ドラえもんは切り抜けるんだ。のび太は確信している。
 これからドラえもんを待つ運命を思い、子どもの時のように前向きに楽しく想像を広げながら、のび太は「次の大長編は超大作になりそうだ」と浮き立つ心を抑えきれないでいた。