四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

 その都市を啓蒙思想家が訪れたのは、年末という来たるべき最大の消費シーズンに向け、誰もがどこかしら浮かれながら日々を過ごしていた頃だった。
 思想家はSNSで発信する。「みなさまの蒙を啓くために、私はこの素晴らしい都市を訪問させていただきました。もし未だ知り得ない真実にご興味がおありの方は、ご連絡下さい」
 住人50万人を越える、環境への配慮が世界屈指とされるその都市で、思想家の言葉を相手にする者は一人もいなかった。

 最初の一週間を待たずして、思想家は自ら市民にはたらきかけることにした。
 街角に立って辻占の真似事をしたり、
 酒場で隣の客に話しかけたり、
 大学の新入生の部活の勧誘に紛れて無垢な学生を捕まえたり、
 つまりは迷惑を省みず手当たり次第市民に話しかけることで、啓蒙活動に勤しんだ。

 ほぼ全ての市民は思想家を相手にしなかったが、たまに運悪く彼の話に乗ってしまい、「真実を知りたい」と求めてしまう者もいた。

 ある酒場で思想家は40代の勤め人と話していた。
「嫁さんが何考えてるか、分かんなくなる時があるよね」
「妻の真意が知りたいと」
「知りたいねぇ」
 思想家は当事者しか知り得ないような具体的かつ詳細な情報を交え、以下のようなことを伝えた。
 妻は浮気などはしていなかったが、その夫のことを心の底から軽蔑していた。
 彼女が全身全霊をもって恋愛感情を或るアイドルに向けていて、人間性の面で軽蔑し切っている夫とそのアイドルを比べ、夫の見た目を油虫のようだと感じていた。毎朝、彼の不慮の死を祈り、最低な夫婦生活からの脱却を夢見ていた。
 夫は蒙を啓かれた。
 妻の真意を知り、速やかに婚姻関係は崩壊した。

 また別の日、思想家は悩み盛りの若き芸術家と対話した。
 彼は自分の才能の限界を知りたがったが、思想家はその問いへの残酷な答えを伝える代わりに、より根本的で過酷な事実を端的に伝えた。
「最早新しい芸術は生まれ得ません。全ては既に詠まれ描かれ奏でられ済みです」
「でもこれは新しかったはず」という芸術家の反論は、思想家が逐一具体的に過去の作品を指摘することで論破された。
 芸術家は蒙を啓かれた。
 彼の知った真実はやがて都市の全ての芸術家が知ることとなり、芸術品は一気にその価値を失い、作品に投機していた人間たちは首を吊った。

 人々にその存在を知られるようになった思想家は、
動画放送に出演し、現在行政の現場で為されていること(あるいは為されていないこと)について、包み隠さず全てを明らかにした。
 行政の長にリーダーシップはなく、政治家は極近視眼的な自らの利益にしか興味がなく、実務を担う官僚は機能不全にあり、ごく近い未来ですら展望できる者はおらず、そしてその愚かなシステムを作り出し放置してきたのが市民自身であるという、何の意外性もない事実を淡々と述べた。
 市民は蒙を啓かれた。
 というか、薄々勘づいていたことをはっきりと示されて、ある種の覚悟を決めさせられた。都市は無政府状態に陥った。
 
 それからもずっと、思想家は市民の蒙を啓き続けた。
「その平和の祭典とやらは全てカネにためだけに開催されそれ以外の目的は全て無視されます」
「あなた方の取り組んでいる環境対策は完全に的外れで現状で既に意味がありませんし、またこれから起こる気候変動により全面的に無駄に終わります」
「多様性を受容する社会を実現したいと言う人間を後援しているのはそれによって新たな需要が生まれることを期待する投資家で、彼らは多様性に興味がないどころか否定的です」
 本当のところには目をつぶりながら、摂取可能な真実だけをああだこうだ言っていたかった市民は、露骨で率直な生の真実にただ震えるしかなかった。

 いつのまにか年は改まり、さらに時は過ぎて、目をこらせば春の訪れを感じられる季節となった。
 荒廃し切った都市に未だ滞在し続ける思想家をある市民が訪れた。
「あなたは人々を真実に晒し、さまざまなものを破滅に追いやった。でもあなた自身は変わらずに過ごしているように見える。真実に向き合う力がありながら、なぜそんなことが可能なのか」
「もちろん私は私に関係する真実には目をつぶって生きている。正確に認識している真実であっても、気づいていないふりをしながら生きることは可能だ。それは古くから知られる生きるための当然の知恵だが。」
 
 思想家はそう言って、愚かな市民の代表者を不思議そうに見つめた。