四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

留める

 頭が疲弊し尽くしてしまった。少し厄介ごとを抱えてしまい、悪い頭を無理矢理使う日々が一月ほど続き、その期間は慣性のようなものが作用して疲弊の抵抗があっても私の精神は動き続けてくれていたのだが、一定の解決を見た途端に動きは止まった。今日どうやって部屋に帰ってきたのかも曖昧だ。
 まだ眠る気になれないが、とりあえずベッドに横になってみる。
 側面を手で何度か叩いた盥の中の水面のように、そこかしこが不規則に上昇/沈下する、とりとめのない思考が行き来するのを眺めている。眺めている私は全く別のことを考えている。それは見たこともない装置で、木材と金属のいくつかの部品からなる比較的単純な作りで、私は何に使うのか分からないその装置の可動域を調整している。
 想像上の装置を調整する私のバックグラウンドに流れる思考が言語から離陸してゆき、未言語化イメージが連鎖してくれば眠りはすぐそこだが、やはり今はそうならない。思考は相変わらず現実に囚われ続けていて、私の疲弊を癒すどころか強調する。私はため息をつく。これは別の方法を取らなければならない。
「そんな時かな、だいたい」と答えると、彼は注文とは違う料理が出てきた客のようにきょとんとして、気を取り直したように口を開き、まず私の精神の心配をしてくれる。
 バックバーのお酒の銘柄がはっきり読み取れる十分な明るさはあるが、それでいて上品に落ち着いたカウンター席。そこでウイスキーを飲んでいる私はおそらく、リラックスランキングでこの街の最上位を争えるはずだけど、と思う。彼にもそう見えるであろうはずだから、なおのこと彼の杞憂の土台にある優しさを感じ、ありがたく思う。
 今は疲弊していないと安心させて、どんな時に文章を書きたくなるかと聞くから、伝わりやすいように少し大げさに言ったのだと説明を補う。
 彼は、それで書くと癒されるのですか、と訊く。十分予期できるはずのその質問はしかし私を戸惑わせる。そして、少し時間をかけて頭を巡らせてから答える。
 疲弊からの回復は目的ではなく、疲弊や失意のもとにある時に書きやすい、というだけであること。私が書くのはつまるところ自画像で、自分を覗き込むような作業においてはそのような精神的状況が好都合なのだということ。
 私の説明をグルメレポーターの一口目のように慎重に咀嚼しながら彼は聞いてくれる。自画像、彼は疑問とも納得ともつかない口調で一言だけ口にする。
 そう、自画像。その時々の私のポートレート
 誰に見せるための、と訊くので、当然私、と答える。
 私が私に見せるために書いている。そこに今の私のかたちを閉じ込めておく。例えば一言のメモでも、3日ほどなら自画像に見える。3つくらいキーワードを書き留めておけば、1年はそこからその当時の私の像を結ぶことが可能かもしれない。
 彼は丁寧に頷きを挟んで、理解しつつ聞いていることを示す。そして私の空いたグラスを指さすので、私はコニャック、彼はアイラのモルトを注文する。私たちは今日の仕上げに入ったのだ。
 でもね、どんなに時間が経ってもその自画像が像として成り立つようにするには、やっぱりある程度まとまった文章にするしかないと思う。私がひどく忘れっぽいからかもしれない。少なくとも私にはそうすることが必要なの。
 彼はスニフターに注がれた薄い黄金色の液体の香りを丹念に嗅ぎ取りながら、
「たいていの小説はそのように書かれているんでしょうね」
と言う。続けて、自画像の自画像としての精度が高ければ高いほど、やはりそれは美しいものになる。その人を知らない他人が読んでも何らかの感興をもよおさせるような。
 そうかもしれない、と私は言う。
 彼は急に陽気な口調で、だから読ませてくださいよ、と何度目かのオファーをしてくる。私は笑って断る。あなただって書いても近しい人間にはきっと読ませないでしょう。
 ああいうものは、他人に見せるとしたら、どこかひどく遠い場所にいる人か、想像できないほど未来の人がいい。
 私はそう思って、そのように言う。