四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

経巡る


 世界でいちばん殺風景な海辺に行きたい。
 なにそれ。運転席の友人は前を見たまま言う。昔読んだ小説にあったの。助手席の私は答える。
 そういうんじゃなくてさ、と彼女は前のトレーラーを抜くために滑らかに追い越し車線に移動する。車は少し加速し、私は緊張する。彼女は運転がとても上手だが、高速道路の上を走る車の中では、私はどんな時でも身体を強張らせてしまうのだ。
 無事にトレーラーを追い越して走行車線に戻る。でも、どこに行きたいって聞くから、と私は敢えて拗ねたような口調で言ってみる。彼女はその演技にはまるで反応せずに、でも海はいいかもね、じゃああそこで高速降りようか、と独り言のようなボリュームで口にする。
 私たちはたまにこうしてドライブを楽しむ。免許がない私にとって助手席は世界で一番気を遣う場所だ。彼女は自分は運転が好きだから気にしないでいい、と言ってくれるが、それに甘えるわけにはいかない。
 昔はそれでもこんなカーナビなんてものはなくて、私は分厚いロードマップルの然るべき頁を常に開きながら、完璧なナビゲーションで運転手に貢献できたものだ。これがAIに仕事を奪われるというやつか(いろいろ違う)。
 助手席の人間は眠るなどもってのほか。常に運転席に退屈させない話題を提供し続ける義務がある。それで好きだった小説の話をしようかと思ったんだけど、見事に空振った。そもそも彼女は小説など読まない。どうして私はこうやっていつも結局自分の好みや欲を相手のそれより優先してしまうのか。
 降りるよ、と彼女が言って車はカーブを曲がり続けて高速の出口に向かう。斜め方向に一定のGを感じつつ、私はカーナビを一睨みしてから持ってきたガイドブックを開く。
 彼女に海岸への道を案内し、周辺の飲食店などをチェックしていると、
 悪い病気が見つかったの、と彼女はまだ海が見えないフロントガラスの向こうを見据えたまま打ち明けた。
 車内の空気が突如物質としての存在感を主張し始め、私は今いる姿勢のまま四肢を拘束されたように感じる。脳みそは空転し、何一つ言葉を紡げない。彼女は視線を固定したまま、自分の身体に起こったことについてあらかたの説明を手早く終えてしまう。
悪性だが早期に発見できたこと、来週入院して手術すること、難しい手術ではないこと、そして再発の可能性がないわけではないこと。
 車の中でなかったなら、手を握るなり肩を抱くなりできるのに、と私は自分が今彼女に投げかけている言葉の陳腐さを省みずに思う。そしておそらく、その種の寄り添われ方を避けるために、彼女は今ここでこの話をすることを選んだのだとも思う。
 過度に寄り添われることで、自分が懸命に築いた防波堤を内側から決壊させてしまうことがある。私は無理のない感じで明るく振る舞うことを選んだ。
 じゃあ今日は目一杯食べよう。あんたはいつも食べることばっかだね、と彼女は呆れ顔を見せる。私は会話という音が途切れないように、ガイドブックを半ば読み上げるようにして、当面の目的地として飲食店を提案してゆく。彼女は一つ一つの提案にいちいちコメントをくれる。車内に気遣いに支えられて宙吊りになるように言葉だけが並んでいく。
 左に行って。私は道を指示する。遠回りじゃない? いいの、と私は主張する。
 幹線道路を外れて路面状況の悪い細い上り坂を走る。あまり地元の車も入らなさそうな林に侵入して、しばらく枯枝をパキパキと踏みながら進む。右へと急なカーブを曲がると下り坂になり林は急に終わって、坂の先のほうにいきなり海が見える。
ね。私は自慢げに彼女を見て、海に出会うときはこうやって下り坂の向こうに出てきてくれるようにするの、と言う。
 彼女はしばらく黙った後、少し車のスピードを上げて、うみー! と叫ぶ。
 そのあと、こんな感じでいいですか? と聞いてくるので、100点だと答える。
 海辺に停めて車を出る。高めの護岸で砂浜はない。磯の香りは弱いが、足元から響くような静かな波音が海を感じさせてくれる。
 彼女は海を眺めていて、私は頭上の鳶をずっと目で追っていた。たっぷり10分は黙って佇んでいたと思う。
 ねぇ。彼女が沈黙を破る。
 私たち、昔はもう少し率直にやりとりできてたと思う? あんなふうに気を遣い合い過ぎずに。
 私は少し考えて、こう答える。今の私たちがお互いに気遣い合うのは、距離が遠くなったからじゃなくて、弱くなったからだよ。自分が弱くなって、相手も弱いだろうと慮るから。それは悪いことじゃないと思う。
 彼女は無言で頷く。
 私が、人は大人になるたび弱くなるって歌、母親がよく歌ってた、母親の歌でしか知らないから本当のメロディは知らないんだけど、と言うと、彼女は、そうかぁ弱くなるなら病気にもなるわねぇ、と軽い調子で応じる。そうだよ、と私も可能な限りの明るさで応じる。
 車に戻り際に彼女は、
 で、見つかったの? 殺風景な海辺は。
 と聞いてきて、私はあの小説の話を蒸し返してると気づくのに時間がかかってしまった。
 いや、「僕たちがいる場所こそが『世界でいちばん殺風景な海辺』なんじゃないか」という結論で旅は終わった、と言うと、
 なにそれ、青い鳥みたい。それは読まないな。と言って笑う。
 その小説はそういう話でもないんだけど、私は彼女が笑ったので、小説も報われたろうと嬉しく思う。
 そして私たちは、車の中でまた昼食の候補について話し合う。私たちの弱さを塗り潰すように。