四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

憤る

「わたしは人を見た目で判断したことはない」と宣う奴はただのバカですが、「わたしは人を見た目で判断しないよう心がけている」という表明にはもう少し混み入った愚かさがあると思うんですよね。
 彼は怒っているようだった。声を荒らげたりはしていない。冷静な口調で表情も穏やかだ。しかし彼がおそらく長いあいだ心に沈めてきたのであろう怒りは、水を抜かれた池の底に眠っていた錆びた自転車のように、もう隠しようもなく露わにされてしまっていた。
 心がけているが、できたためしはない、と言うのなら誠実だと思う。敢えて心がけていることを主張したことに疑問はもちますけどね。でも、心がけることで自らの偏見を制御できると考えているとしたら、それはかなり迷惑なタイプの人間だと思います。
 外見の印象からもつ偏見、人間はそこから自由になることは絶対にできない、と彼は言う。それはそのとおりだろう。しかし私は同意を示すことはせず、彼の怒りの輪郭をはっきり見極めるため今は聞くことに集中する。
 仕事相手を訪ねた日帰り出張の帰りの新幹線。私は後輩の女の子を挟み彼と3人席に並んで座っている。
 ことの起こりは今回仕事をお願いする女性クリエイターとの雑談だった。依頼を快諾されて仕事の話は滞りなく済んでしまい、うちの会社と付き合いが私たちよりもずっと長いその女性の、古い思い出話を聞いていた。女性は我々の部署の歴代の部長について、かなり遠慮のない批評を開陳した。
 結局、顔です。顔で悪ければ全体的な雰囲気と言い換えてもいいですが、見た目ということに変わりはない。あれはSさんが可哀想です。
彼は女性がK元部長をベタ褒めするのにS元部長を散々にこき下ろすのに立腹していた。
 あの二人が彼女に見せた態度やかけた言葉はともに大概ですが(そういう時代だった、では許されない想像力のなさです)、その酷さは同程度です。むしろKさんの方がより悪質だと言ってもいい。それがあの評価ですよ。天と地です。信じられない。あんまり腹が立つから僕言っちゃいましたよね、それって見た目も評価に入ってませんか、って。そしたらすごい否定して。私は偏見には気をつけてる的な。
 まだその話してるんですか、と真ん中の席の彼女がお手洗いから戻ってきて呆れたように言う。彼は一度席を立って彼女を通す。まだまだするね。いやだから人は見た目で判断しますって、しょうがないじゃないですか。彼女はうんざりしたように言う。
 私は話を戻すように口を挟む。あなたの言いたいのは、見た目で判断することが悪いということではなくて、それを自覚しない、あるいは認めようとしないのが良くないということですよね。
 そうです、と彼は私が言い終える前からかぶせるように相槌を打つ。僕は何も男女の関係だけについて言っているわけじゃありません。というか、問題は人間の個人的関係に留まらない。
 その言葉に私は興味をもち、それを表情で示して彼に続きを促す。
 例えば、共感を得やすい感情表現とそうでないものがあって、それはほぼ美しさによって決定していると思います。
 軍事政権化で国家権力に抑圧されている市民についての報道があるとします。同じ悲痛な主張でも、これ見よがしに号泣しながら甲高い絶叫で不当な扱いを受けていると主張するデモ参加者と、静かに悲しみを湛えた目で壊されてしまった日常の前に佇む少女と、どちらに共感しやすいですか。
 確かにより感情を動かされるのは後者かもしれない。その種の人間の偏見を利用したものの伝え方も嫌だと。
 彼は頷き、さらに続けて、例えば絶滅危惧種の生物は哺乳類や鳥類などの感情移入しやすいものの方が昆虫とかより優遇されてる気がする、などと地球規模の敷衍を始めてしまう。そこで、結局先輩は何が言いたいんですか、間に座る彼女が面倒くさそうな感じを殊更に表しながら彼に訊ねた。
「わかんない」
 私たちを驚き呆れさせて彼は続ける。
 でも何かずっと腹が立ってる。もちろん差別を自覚しない人間への憤りはあるけど、それ以上に、見た目で明確な優劣が存在する世界自体が憎いのかもしれない。僕は、あるいは僕たちは、ずっとそこで俎上にあがらない疎外感を感じ続けている。
 ずいぶん主語もスケールも大きくなったけど、いつからそんなことを思うようになったの、と私が訊くと、
「僕が非モテの星の住人で、その星の先人に愛と勇気を教わったからです。」
 なにそれ意味わかんないです、と彼女。分からなくていい、と彼。
 私はあの人はそんなこと教えていたっけ、と思う。だけど口にせず、彼と彼女ふたりの顔を交互に見比べて、いいコンビになりそうだと思う。
 こんなふうに遠慮なく意見を言い合えるなら大丈夫だ。最初はお互いにどんな偏見を外見からもっていたとしても。