四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

隔てる

 よく見てるねぇ。
 彼は心底嫌そうな表情を敢えてつくりながら、しかし隠せない苦笑いも見せて私に答えた。
 コの字形の座席に着いて行われた会議で、彼は私の真向かいに座っていた。会議の後、移動しながらかつて同じ部署にいて親しかった彼に声をかけて、私は彼が会議中に一瞬とても厭な顔をしていたことを指摘したのだった。
 あれはね、と彼は飲み物の自販機コーナーに私を誘い、ペットボトルのお茶を買いながら種明かししてくれる。
 体育会系、って言葉が本当に厭で。
 彼は今でも週一でフットサルか何かをやっていて、大学時代にはわりとメジャーなスポーツの部活に所属していた、いわゆるその言葉で括られる人物だ。その種の色眼鏡で見られるのが厭なの、例えばお前は使い減りしないな、みたいな偏見とか。
 その問いに彼は、それもあるけど、と言って、少し周囲を見回してから続ける。
「体育会系」って言いたがる人って、全然体育会系じゃない人が多いんだよ。いや、大学で体育会に所属してたかもしれないけど、スポーツそのものより「体育会系」に所属したいっていう、手段が目的化してた人みたいな。
 もちろん俺の偏見だよこれは、と彼は断りつつ、自説を述べる。
 本当にスポーツに熱中してたら、いわゆる先輩後輩の上下関係なんてそんなに重視しなくなる。チームスポーツなら特にね。例えば俺たちの部活は掃除や片付けなんかは最上級生の仕事だった。もちろん後輩にそういう姿勢を見せるっていう教育的な側面もあったけど、部活に慣れてよく知っている人間がやるほうが合理的だからだ。その方が練習に時間が取れる。その練習だって、本当にうまく強くなりたければ、いわゆる「しごき」なんて無意味だってことはすぐわかる。当然厳しい練習はする、でもそれは自分たちが自分たちに課すものであって、他人に強制するもんじゃない。
 私はその種の世界を詳しく知らないが、彼の言っていることは理解できた。
 私は「文系」「理系」という雑な分類も嫌いだ。いわゆる理系的と思われている論理的思考は文系科目の論理学で学ぶものだし、そもそも基礎的な教養はその二つにまたがるものだし、ともに重要で分けられるものではない。受験というシステムのために便宜上分けられたカテゴリを後生大事に抱えている人間が哀れだとも思うよ。
 そんなふうに言うと、彼は、相変わらず言葉がキツい、と言いながら笑って同意する。
 じゃあなんでいわゆる「体育会系」って概念がこんな形で世の中に浸透しちゃってるんだろうね、と訊くと、
 わからないけど、そういうのが好きな人っていうのが一定数いるからだと思う。多くは男性かもしれないけど、女性にもいるよ。残業時間の長さを誇り、後輩にも当然のものとして強制するタイプが。
 私は何人かの元上司や同僚を思い浮かべる。確かに。
 小説なんかで、戦前の簡閲点呼の描写とか見てると気持ち悪いよね。正規の軍人とはいえないような在郷軍人の分会長とかが点呼した一般市民に空虚な権威を振りかざして威張り散らす。ああいうの、好きな人がいるんだよ。ずっと。
 私は深く納得し、そして救いのない気持ちにもなる。いやだねぇ、とだけ声に出して彼を見ると、複雑そうな顔をしている。
 俺もある程度の地位になっちゃってるから、無意識に権威を振りかざしてるかもしれない、それを避けたら避けたで今度は無責任な振る舞いと言えるかもしれない、と溜息まじりに言って、そっちはどう、と訊いてくるので、
 私は私の考えることを言う。
 権威を借りる形で指示を出すことはある。でもその時は丁寧に、別の可能性を選ぶ自由があることを伝える。それが指示される人を迷わせるとしても、責任回避だと思われるとしても、必ずそうする。時間と手間がどれだけかかっても、そのように伝えるようにしている。
 彼はそれを聞いて、そうだよな、時間をかけないとな、サボっちゃいけないよな、と言う。
 俺が「体育会系」っていう括りが嫌いなのにはもう一つ、そこには知性の欠如が当然の副産物のように思われることなんだよ。だから知性をもって言葉を尽くすことはなおのこと重要だよな。
 そうだよ、私たちには言葉があるんだから。