四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

諮る

 親指と中指の指先の間を隔てる距離だけに集中して、一種艶めかしいほどなめらかな土を指で挟み、そっと内外の表面をつたうように右手を下方から上方へと動かす。左手は右手の手首をがっちり支え、それ以外の身体の部分も完全に凝固させるようなイメージで、私は右手だけが稼働する工作機械になる。
 眼下で絶えざる円運動を続けている土の塊が、中に穿たれた穴の半径を保ちながら、その高さを少しずつ増していく。十分な高さと薄さを得るまで私は右手の上下運動を繰り返す。
 もう限界だよ、と通りかかった彼女に伝えると、それじゃあお湯呑みとして小さ過ぎるしまだまだ分厚いよ、と笑顔でダメ出しされる。彼女は電動ロクロの前に座る私の斜め後ろに立って、より高く陶土を成型するための手段を伝授する。
 彼女はこの陶芸教室にもう10年以上通っていて、体験参加者が集まる今日のイベントでは、先生のアシスタントとして普段とは逆に教える立場に立っている。友人でど素人の私は、秋に行われるこの体験イベントに毎年参加していて、今回は初めて手でロクロを回す「手びねり」ではなく、電動ロクロでの成型に挑戦したのだ。
 電動ロクロの土は柔らかく、油断するとすぐ口径が広がってしまい、難しい。最初失敗した時彼女に、お湯呑み作ろうとしたらお茶碗になっちゃったと泣きつくと、ありがちありがち、と言いながら彼女は失敗作をスッとロクロから取り去って、新たな成型の準備をしてくれた。その手つきが鮮やかで、私はすっかり感心してしまった。
 彼女は心根は優しいけどそれ以上に大変控えめな人で、積極的に人と関わろうとはしないし、人に親切にすることですらも「もしかしたら迷惑なのでは」と躊躇うような性格だった。それがここでは私をはじめとする素人体験者たちに、とても丁寧かつ適切に指導をしている。毎年のことだけどその姿が新鮮で、私はそれを見るのも楽しみにしている。友人の普段見られない一面を観察するのは楽しい。
 なんとか湯呑みに見えなくもないものを作り上げた私は、イベントの片付けを終えるのを待って、彼女と食事をともにする。少し客層の若々しいカフェともダイニングともつかない曖昧な飲食店で、クラフトビールで乾杯し、彼女を労う。
 教えるの板についてきたねと言うと、口を尖らせて、やめてよ、いつまで経っても慣れなくて自分にうんざりしてるんだから、と苦笑いする。そしてその笑いを消して、
 実は本当に困ってるんだよね、と話し始める。
 職場でそれなりの地位につき、後輩や部下を指導する機会が増えてきたが、なかなかうまくいかない。仕事の進め方などを教えるのは、マニュアル化し得るテクニックなので、少しずつうまくなってはいる。ただ、叱ることができない。軋轢を避けたいのもあるが、叱るほど自分に自信もないし、何よりそこまで情熱をもてない、と彼女は言う。
 私は尋ねる。情熱? ほらいるじゃない、少年野球のやたら熱血なコーチとか。私よく河川敷を散歩するからそういうシーンを見物することが多いんだけど、明らかにやる気のない子どもにめちゃくちゃ怒ったりしてるのね、やる気を出せ!的な。その子はたぶん野球なんて友達付き合いでやってるだけで長く続けないだろうし、そんなに上手くない自覚もあるから、練習でやる気なんて出しようがないと思うの。でもコーチは彼のモチベーションに強くコミットしようとするのよ。私があの子だったら頼むからほっといてくれって思うんじゃないかな。
 目に浮かぶような光景だけど、あなたもそういう情熱を手に入れたいってこと? 違う違う、と彼女は首を振り、そうじゃなくてあの種の情熱が自分にないのを知ってるわけ。だから困ってるの。自分が変わらないのは知ってる、でもそれだと仕事にちょっと支障が出る、そういう愚痴ね、ただの。ごめんね。
 私は首を降って、彼女への共感を伝える。
 彼女が、結局のところ私は他人にそんなに興味をもてないのかもしれないね、と結論づけようとするので、私はそれは違うと思うと口を挟んで、
 自分の力で他人を変えることに興味をもてないだけだよ。そういうのが好きな人はいる、一定数。でもあなたや私はそうじゃなかった。それはいいことでも悪いことでもない。良い指導者たり得ないかもしれないけど、その代わり精神的暴力を振るう可能性も少ない。
 影響を与えて嬉しい相手なんて、本当に好きな人だけだよ、と彼女は言い、私は全身を使って頷いてそれに同意する。