四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

Re:立止る

 10年ぶりに会った大学の同級生は、変わってなかった。相変わらず率直で、要らぬ気遣いがなく、何より美味しいものを美味しそうに食べる。僕は彼女の前だといつも油断して、自分のことばかり喋ってしまう。そして次の日に反省する。このルーチンも10年前と変わっていない。
 僕も変わってないと言われたが、自分では分からない。
 ただ、もう10年プラスして20年前と比べると答えは明らかで、僕はあの時からは変節してしまった。
 ただ、16、7の頃の自分が今の自分を見てガッカリするかっていうと、ちょっと微妙なところはある。何しろあの頃僕は「生活に追われる」ことを何よりも格好いいことだと思っていたのだから。肥大する自我と限定される可能性との葛藤、とか、自己顕示欲と性欲とがないまぜになった行き場のない衝動、とか、そういうものから解脱し切った、日々の雑事に追われる具体的な生活。
 その頃僕には憧れている部活の先輩がいて、2つ上の先輩だったけど2度留年して結局一緒に卒業したんだけど、高校生で既に一人暮らししていた彼はめちゃくちゃカッコよく見えた。なんだか怪しげなバイトをしていたり(そしてそれを手伝わされたり)、急に羽振りが良くなったと思えば次の週には困窮してたり、僕の同期の一番可愛い女子部員と付き合ったり、今思えば「まぁそういう人もいるだろ」って感じだけど、僕は彼に懐いて、よく部屋を訪ねて高橋源一郎の小説について話したりしていたのだ。
 その先輩が一番カッコよく見える瞬間が「今日は洗濯せなアカンから早く帰るわ」と言って原付で去っていくような時だった。僕たちが必死で楽しもうとしている放課後に、「そんなことより洗濯」なんて言えることが、仙人のように達観した態度に思え、バカバカしく見えるかもしれないけど、たまらなく憧れていたのだ。
 そして現在、いざ生活に追われてみて思うのは、生活のための行為というものはそこまで純化されたものではなく、すべての悩みを忘れて没頭できたりはしないという、まぁ当然の気づきだ。そしてあの頃は無限に与えられている気がしていた時間が、相対的にも貴重なものにならざるを得ない今となっては、生活によって人生が無駄に削られていくだけだと感じるストレスが、何より大きくなってしまっている。
 というようなことをあの頃の僕に説明してもうまく伝わらない気がするが、まぁガッカリさせることには成功するかもしれない。別にガッカリさせたいわけではないんだが。
 でも、それよりも失望するのは今の僕が目をほぼ過去にだけ向けていることかもしれない。あの頃はそういう懐古主義的なのが何故か許せなかった。強い怒りと軽蔑を感じたものだ。自分自身に目を向ける過去がまだなかったからでは、という身も蓋もない考察はいったん措くとして、これに関しては今の僕も気持ちが理解できなくはない。
 卑近な例で言えば、あの頃自分が好きだったアーティストの音楽を当時のオッサン評論家が「これは70年代のアレとアレの影響を受けてて」みたいにしたり顔で指摘するのがなんか腹立つ、みたいなくだらない(でも真っ当な)感情だ。自分と特別な関係を築いている音楽を部品の集積のように分析されることへの苛立ちもあるだろうが、単純に答えは過去にある、という権威的な(と見えていた)決めつけを受け入れられなかったんだと思う。
 しかし今、僕はアップデートを諦め、今の自分を描出することにしか興味がない。今の自分を形作っているのはもちろん過去の集積で、結果僕は過去しか見ていない人間となっている。変節だ、と言われたらそうかもしれないけど、こればかりはどうしようもない。
 あの頃の僕がもっていた、出会う何かとスペシャルな絆を見つけ出せる目は、今の僕にはもうなくなってしまっているのだから。初めて聴く音楽が、僕の耳にあの頃のように響くことはもうないのだから。