四次元くずかご

自分のかたちを知るために、ことばを連ねてみたなにか

ありふれた収奪

 3枚目となる絵を納品する際に、流石に絵師はクライアントに尋ねた。
「今回もお買い上げありがとうございました。客観的にも法外と言える金額でお買い求めいただき、ありがたく、また絵師として誇らしいです。ただ、もしよろしければ一つだけおうかがいしたいのですが、今回で3枚目のご注文となりますが、なぜ全く同じ絵を何度も御所望くださるのでしょうか」
 クライアントはそれに答えず、4度目となる同じ注文をして、絵を抱えて立ち去った。季節外れの厚着をした彼を見送りながら絵師は首を捻りつつ、渡された金貨を妻に渡しに仕事部屋を離れた。
 4枚目も同じ、なんということのない絵師の地元、といっても今のアトリエ兼自宅から歩いて2時間ほどの川沿いの港町、その風景を、同じ構図同じ色合いで描くことが求められた。

 もちろん絵師はその絵を気に入っていた。もともとは注文されたわけでなく自ら描き始めた絵だった。風景画は人気がなく、売れることはまずない。妻は彼が風景画を描くことに反対だったが、注文で描かされる絵は人物画ばかり、それも成金が貴族の真似事をして珍妙な扮装をしている姿を「威厳」があるかのように描けとか、醜いという共通点で血縁関係が一目でわかる奴らが雁首揃えているのを「家族愛」を主題として描けとか。そんなうんざりする依頼の息抜きに風景を描くのは楽しい時間だった。

 そのように自分のために絵筆をとった、特に構図に凝ったわけではない、遠景に海を望みつつ運河にかかる小さな仮設の木橋を描いた作品を、クライアントは「1枚目」として買い求めた。アトリエに入るなり、一目見て決めたようだった。
 当然絵師は喜んだが、購入と同時に「これと全く同じ絵をもう一枚描いてほしい」という依頼をするクライアントに戸惑いはした。しかし相場の10倍はゆうに越える金額が支払われ、前金として「2枚目」の半額も渡されてしまい、断るという選択肢はなかった。「全く同じというのは難しいかもしれませんが、できるだけ似せる努力はいたします」とだけ伝え、長すぎも短すぎもしない納品期限を了承した。

 絵師は10代の頃は将来を嘱望された才能だった。今でもこの地方で絵師として最初に名前が挙がるほどの人物ではあるが、中央のアカデミーで名を上げたり、帝国の宮廷絵師として招かれるなどの、かつて期待されたような華々しい活躍は見せないまま、30代を迎えていた。
 自分の才能は相変わらず信じていたし、自分が理想とする絵に近づけている手ごたえを感じる時もあったが、名声を得たいとは思わなくなっていた。絵で生計が立てられ、妻と健やかな生活が送れれば十分だ。最大の報酬は描くことそれ自体で得ているのだから。

「また同じ絵の注文を受けたよ。これで4度目だ」
 こだわらない絵師の妻は「あら、よかったじゃない。お代は変わらずなんでしょ」などと答えるが、絵師は流石に疑問に思う。
 2枚なら分からなくもない。内装の意匠上の必要などがあって同じ画面が2つ欲しくなることもあるかもしれない。3枚目の時は、2枚目が余り似ていなくてまた同じ依頼をしたのかと思った(何しろ依頼も期限もなく描いた1枚目をどう描いたのか、よく覚えてはいなかったのだ。だから1枚目を一旦返却してもらい3枚目はそれを見ながら描いた)。返品するほど瑕疵のないが不十分だった2枚目の代わりにするための依頼なのだと思い込もうとした。
 そして今回、3枚目を渡すにあたってついに理由を訊いてみたが、答えは与えられなかった。

 ひょっとして、自分の絵は自分が思う以上に評価が高く、クライアントはどこかの絵画市場で作品を転売することで大きな利益を得たりしているのだろうか。
 いやいやいや。絵師は冷静にその可能性を否定した。それなら私に別方面から依頼が来るだけだ。確かに今はこの仕事で手一杯で他の仕事を断っているが、報酬がこれより高ければ受けるだろう。そんな依頼は来ないが。
 クライアントは私にこれまでに大量の金額を支払っている。これは投資なのかもしれない。もしかしたら、私を完全に抱き込んだ上で、腕のいい贋作者にさせるために育成しているのだろうか。
 これは転売よりはありそうな気がしたが、そんな気の遠くなるような時間をかけずとも、彼が私を「育て上げる」ために必要となるだけの金があれば、腕のいい贋作屋などいくらでも見つかるだろう。

 謎は解けないまま依頼は続き、絵師は同じ絵しか描かない1年を過ごした。1枚目の返却は求められず、それを見ながら描き写す作業を繰り返した。
 年中変わらないクライアントの黒ずくめの厚着がまた季節外れに見え始め、絵師は15度目となる依頼を受けた。
 ふとした思いつきから、絵師は今回、少し色合いを変えて描いてみることにした。横に置いて比べないと分からない程度だが、絵から受け取る雰囲気はかなり違う筈だ。
 しかしその15枚目をクライアントは特に感想もなく受け取り、16枚目の依頼を残して立ち去った。

 色合いを変えるのは絵師の密かな楽しみになった。
 変化の度合いを少しずつ大胆にしてみたが、気づいているのかいないのか、クライアントは何も言わない。
 ある時、絵師は思い切って構図を少し変えてみた。
 受け取りの際、クライアントが少し眉をひそめたのに絵師は気がついた。
 しかし特に何も言われることはなく、依頼は継続された。

 さらにある時、依頼とは全く別の絵を仕上げてみた。絵の大きさは同じだが、想像で過去文明の遺跡を描いた廃墟画だ。
 絵師はもはや受け取りを拒まれることは承知の上で、依頼がここまでになるならそれでも良いと思っていた。普通に絵を描いていたら一生かかっても稼ぎ切れなかった金を得ていたし、流石に同じ仕事しかできないことに嫌気がさし始めていたからだ。

 これにはクライアントも激昂した。契約違反なのだから当然だ。この関係も終わりかと絵師が一種さっぱりした思いで覚悟を決めていると、クライアントはこの遺跡の絵を、いつもの100倍の価格で買い取りたいと言う。さらに、また今までと同じ風景画を注文し、今後は10倍の金額を支払うと約束した。
 その言葉を裏付ける代金と前金を現金で支払って、クライアントは絵を持ち立ち去った。

 絵師は家を建て替えた。贅沢を覚えた。使用人を雇い、制作作業の補助者も招いた。彼らを使って依頼の風景画を合理的に、時間をかけずに描く工夫も始めた。
 空いた時間に好きな絵を描こうと思っていたが、金と暇が両方できたため、遊びを覚えてしまった。好きな絵は仕事がいつか途絶えたら描けばいい。
 家に居つかなくなった夫に、妻も文句を言わなかった。彼女も彼女なりに楽しく過ごしているらしい。何しろ金はあるのだ。
 人生が充実している、絵師は心からそう感じていた。

 40歳になる前の日、突如注文が止まった。すでに100枚以上は描いていた。
 絵師は初め事態が飲み込めず、従来どおり次の注文の前金の入金伝票を作り始めていた。
「いえ、もう注文はしません。今までありがとうございました。」
 絵師は咄嗟にこう口にした。
「手を抜いて申し訳ありません。今後はちゃんと描きます。どうかお考え直してもらえませんか。今回の絵も描き直します。」
 自分の中で当然のこととなっていた収入が絶たれる恐怖、幸運を失う惜しさ、合理化への後悔、贅沢を続けたい欲望などが混じり合い、混乱していた。

「その必要はありません。今回描き上げていただいたものも品質的に何の問題もありません。」
「ではなぜ。」
「もう必要がないからです。」
「絵の数が足りたということですか。」
「いいえ、あなたに絵を描いていただく必要がもうなくなったのです。
 あなたと絵画との間にあった特別な結びつきは完全に消えました。
 もはやあなたの絵筆が真実に届くことはない。
 真実、つまり世界に知られてはまずいことをあなたが描き出す可能性はなくなった。
 私たちはそれだけを懸念していたのです。それであなたの絵筆をずっと拘束し続ける必要があった。
 私の仕事は終わりです。」

 淀みなく話し終えたクライアントは、少しずつ色合いを淡くするようにしてその場に留まりながら存在を薄めていき、やがて目視が難しくなって、その後気配すらも完全に消えた。
 絵師はクライアントの説明に最初は驚きを感じはしたが、彼が目の前で消滅したことにはもはや驚かなかった。
 そして少しして、全てを納得した。

 私は、ずっと奪われ続けていたのだ。

 絵師は描くことを辞めた。それでも十分に残った蓄えを費いながら、かつての質素な生活に戻り、妻を愛し、天寿を全うした。
 幸福な男だったと誰もが言った。